禅 語

智慧のことば

日日是好日

 浄土宗には阿弥陀経など「浄土三部経」があり、日蓮宗は「妙法蓮華経」があります。では、禅宗がよりどころとしているお経は何でしょうか?それは「ありません」。禅宗は、お釈迦さまが悟られたことを自分で体験することを目的としています。ですから、言葉ではなく、行動を大切にします。

 しかし、何も考えないで行動することも、またバランスの悪いことでしょう。「中道(ちゅうどう)の教え」にも反します。それに、自分の経験だけをたよりに行動することは、ときに危険です。禅宗では、言葉を軽くみているのではなく、行動をともなわない言葉を無意味なものとするのです。「禅語」という分野があるのも、言葉の大切さを先人たちが知っているからなのです。


一日(いちじつ)作(な)さざれば一日食(く)らわず

意味:今日一日、私は何もしなかったので、このご飯をいただくことはできない。

 百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師は高齢になっても、お寺の草取りや掃除をやめませんでした。ある日、弟子たちが禅師の身を心配して道具を隠してしまいます。すると、禅師はその日の食事をとりません。弟子がその理由を尋ねると、返ってきたのがこの言葉です。私はこのご飯をいただけるほど働いただろうか・・・。一日の終わりに反省したいものです。


一大事とは、今日ただ今の心なり

意味:もっともかけがえのないことは、二度と来ない今日という日の、今の自分の心である。

 「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」インド独立の父と呼ばれるガンジーの言葉です。今日をおろそかにしてはいけないということですが、今日を大切に生きるにはどうすればいいのでしょうか。振り返っても後悔のないように心がけて過ごす、というのも一つの考えでしょう。充実していたと一日の終わりに思いたいものです。


慧玄(えげん)が這裡(しゃり)に生死(しょうじ)無し

 妙心寺を開いた関山慧玄(かんざんえげん)禅師は、ある僧に「どうか、生と死について教えてください。」と尋ねられたときに、こう答えました。「私にとって、いま・このときが一番大切であり、生も死も、結果でしかない。」人生に正解はありません。言葉を通して、それぞれの人が考えるきっかけになるのが禅語なのでしょう。


大いなるかな、心(しん)や

 日本に初めて、禅とお茶を伝えたことで知られる栄西(えいさい)禅師は、「禅」というものをどうしたら人々に理解してもらえるか考えました。禅は、心を自由に解き放つものです。「天の高さや地の深さには限りがあるが、心には限りがない。」人の心の広さ、尊さに気づいてほしいという禅師の願いです。


大いなるものに いだかれあることを
けさふく風の すずしさにしる

山田無文(元臨済宗妙心寺派管長)

 無文(むもん)老師は若いとき、重い結核になりましたが、奇跡的に回復します。老師に生きる力を与えたのが、頬(ほお)をなでる風でした。「そうだ、私は孤独ではない。空気のような大いなるものに生かされているではないか。」


我逢人(がほうじん)

意味:私は人と出会った。

 鎌倉時代、比叡山などで修行をした道元禅師は、本当の仏教を求めて中国に渡りました。そこで如浄(にょじょう)という名僧に出会います。如浄禅師は宗派にこだわらず、異国から来た道元禅師に対しても分けへだてなく指導しました。後年、如浄禅師との出会いについて道元禅師は次のように回想しています。「いま、目の前に師となる人物が現れた。(大切なのは、経典や知識を学ぶ以上に)人と会うということだ。」


瓦(かわら)を磨いて鏡となす

意味:坐禅という形にこだわって、どうして仏になることができようか。

 南嶽懐譲(なんがくえじょう)禅師には、坐禅ばかりしている弟子がいました。

禅師「お前は坐禅をして何になろうとしているのか。」

弟子「仏になろうと思います。」

 すると、禅師は瓦を磨き始めました。

弟子「何をなさるのです。」

禅師「瓦を磨いて鏡にする。」

弟子「瓦を磨いても鏡にはなりませんよ。」

禅師「そうか。どんなに坐禅をしても、仏になれないのと同じじゃな。」


閑古錐(かんこすい)

意味:使い古されて丸くなった錐(きり)には、落ち着いた味わいがある。

 新品の錐(穴をあける道具)は先端が鋭く切れ味がいいですが、使い続けていくと、鋭い角がだんだんととれていって丸くなっていくそうです。そして、ついには穴をあけることが難しくなってしまいます。道具としては使い物にならなくなったかもしれません。でも、使い続けたからこそ道具としての役割を全うできたといえるでしょう。この錐のように年を取るのもいいではないでしょうか。


棺(かん)を蓋(おお)いて事定まる

意味:人の評価は亡くなってはじめて決まる。

 戦国時代に妙心寺などで多くの弟子を育てた大休宗休(だいきゅうそうきゅう)禅師は、会話の中で相手が人をほめると、「その人は死んだ人か?」と必ず聞きました。「まだ生きています。」と答えると、「それではこの先、何か悪さをするかもしれんなあ」と言い、反対に人を悪く言う者があれば、「この先、その人が何か良いことをするかもしれないなあ」と答えたということです。


喫茶去(きっさこ)

意味:まあ、お茶でも飲みなさい。

 趙州(じょうしゅう)禅師は、修行僧がやってくるたびに、「お前は以前、ここにいたことがあるか?」と聞いていました。僧が「居りました」と答えても、「居りません」と答えても、趙州禅師は「まあ、お茶でも飲みなさい」と言います。それを聞いていたある和尚さん。きっと何か深い意味でもあるのだろうと思い、禅師に質問しますと、
 趙州禅師「和尚さん。」
 和尚さん「はい。」
 趙州禅師「まあ、お茶でも飲みなさい。」


客に接するときは独(ひと)りおるが如(ごと)く、独りおるときは客に接するが如し

意味:人前であっても特別に意識することなく普段どおりに過ごし、たとえ誰も見ていなくても、誰かがいるつもりで過ごします。

 これは、明治・大正の禅僧、釈宗演(しゃくそうえん)禅師の座右の銘のひとつです。円覚寺の管長となり、世界に禅を「ZEN」として広めた名僧ですが、そんな修行をおさめた方でも、自らを戒める言葉として心にとどめているのです。


逆風帳帆(ぎゃくふうちょうはん)

意味:向かい風が吹いて前に進めなくても、あえて船の帆(ほ)を張って行きましょう。

「人生の逆風(困難)にも帆を張れ(立ち向かえ)」という禅語です。これを見ますと、禅宗とはなんとも厳しい教えだなあ、とつくづく思います。

 船のことはよく分かりませんが、風をつかみ、帆をたくみにあやつることで、逆風でも少しずつ前に進むことができるそうです。しかし、技術はともかく大切なのは、逆風が吹いても帆をたたまない(あきらめない)ことなのかもしれませんね。


倶胝竪指(ぐていじゅし)

意味:倶胝禅師、指を立てる。

 倶胝(ぐてい)禅師は難しい質問をされると、答える代わりに、だまって指を立てていました。ある日、禅師の弟子が人から、「あなたの師匠はどのような教えを説いているか?」と聞かれたので、師匠のまねをして、だまって指を立てました。それを聞いた禅師はその弟子を呼びつけ、いきなり指を切り落としました。痛さのあまり泣きながら去ろうとすると、禅師に名前を呼ばれました。弟子が振り返ると、禅師はだまって指を立てていました。物まねはいかんぞとばかりに。


行雲流水(こううんりゅうすい)

意味:雲のように行き、水のように流れる。

 雲は、風に吹かれれば自分で行き先も決められず、水もまた、入れ物によって形が変わったり、温度によって姿を変えます。でも、雲は風に吹き散らかされても、どこかで再び現れます。水も、氷や水蒸気になったりしても、決して水以外のものにはなりません。時代が流れても大切なものは変わらないでしょう。ちなみに、雲や水のように、自由自在に修行する心や姿から、修行僧のことを「雲水(うんすい)」といいます。


災難に逢(あ)う時節には 災難に逢うがよく候(そうろう)

 これは、良寛さんが、地震の被害にあった友人へ出した手紙の中の一節です。「災難にあうときは、災難にあうのがよい」というこの言葉が今に伝わっているのは、どうしてでしょうか?良寛さんは、たまたま無事でしたが、災難はだれにでもふりかかります。手紙にただ「がんばれ」と書くよりも、「のがれられない苦しみは、あなたも私も同じだから、ともにがんばろう」という思いが友人に伝わったから、この言葉が残っているのだと思います。


直心(じきしん)これ道場なり

意味:自分の素直な心の中こそ、修行をする大切な場所である。

 お経の中の物語です。ある修行者が、静かな修行の場所を探していると、維摩(ゆいま)という、出家しないで悟(さと)りを開いた人に会いました。「あなたはどこから来たのですか?」と修行者が尋ねると、維摩は「道場から来ました」と言います。修行者は、維摩が修行した道場で修行したいと思い、どこにあるか聞いてみました。維摩が答えたのがこの言葉です。


時時(じじ)に勤めて払拭(ふっしき)せよ

意味:汚れたら、その都度きれいにするように、心を磨いておきなさい。

 どんなに窓をきれいにしても、しばらくたてば雨やほこりで汚れます。むしろ、窓をきれいにすると雨が降るのではないかとさえ思ってしまいます。それでは、どうせ汚れてしまうのなら、窓をふくことは無駄でしょうか。大切なのは、窓の汚れに気づくことなのかもしれませんね。


且緩緩(しゃかんかん)

意味:とりあえず、ゆっくりやっていきましょう。

 雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師のところには多くの修行僧がいましたが、その中に、次から次に質問する弟子が一人いました。「師匠、結局さとりとは何ですか?」「さとりを得るためには、どうしたらいいのですか?」そこで禅師が答えたのがこの言葉です。早く結果を出すことも大事ですが、あせらず落ち着くことも同じように大事です。何事も、かたよらないようにしましょう。


主人公(しゅじんこう)

 この「主人公」は物語の主役ではなく、自分を見つめる言葉です。瑞巌師彦(ずいがんしげん)禅師は毎日の坐禅で、自分に「主人公!」と呼びかけ、自らこれに「はい!」と返事をしました。はたからみたら、ちょっとびっくりしますが、自分を見失わないための、禅師の工夫だったのでしょう。


諸悪莫作(しょあくまくさ) 衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)
自浄其意(じじょうごい) 是諸仏教(ぜしょぶっきょう)

意味:悪いことをせず、善いことを行い、心を清らかにすること、これが仏の教えである。

 唐の詩人、白楽天(はくらくてん)と道林(どうりん)禅師の問答です。

白楽天「仏の教えとは結局、何なのですか。」

道林「悪いことをせず、善い行いをすることである。」

白楽天「そんなことなら3歳の子供でも知っています。」

道林「3歳の子供でも知っているが、80歳の人でさえ実行するのは難しい。」


照顧脚下(しょうこきゃっか)

意味:自分の足元をよく見なさい。

 仏教では、「自分を知る」ということが大切だとされています。他人のことはよく分かるものですが、いざ自分のこととなると意外に見えなくなるものです。他人のまねをしたり、評判を気にしたり、自分を棚に上げて人を評価してしまったり・・・。この言葉は、自分というものを知るために他人と比べる必要はない、ということを教えてくれます。


生死事大(しょうじじだい) 無常迅速(むじょうじんそく)

意味:人生はかけがえのないものであり、時はあっという間に過ぎていく。(無駄に過ごしてはならない。)

 禅の修行道場では、時を知らせるために木板(もっぱん)という木の板を打ち鳴らしますが、そこに書かれているのがこの言葉です。もっとも、修行中は早く時が過ぎればいいと思っていましたが・・・。


心痛はしてはならぬ。が、心配は大いにせよ!

山本玄峰(元臨済宗妙心寺派管長)

 心痛(しんつう)と心配(しんぱい)は違います。考えても仕方のないことで悩むのを「心痛」といい、これは苦しいばかりで何の意味もありません。一方、「心配」は心を配って考えて、何とかしようと悩みと向き合うことです。心配は大いにしましょう。


啐啄同時(そったくどうじ)

 ヒヨコが卵からかえるとき、殻(から)の中から鳴いてつつき、一方で親鳥は外から殻をつついて出てくるのを助けるといいます。この「啐(そつ:鳴く)」と「啄(たく:つつく)」は、お互いに早すぎても遅すぎてもいけません。タイミングの大切さを説くたとえ話ですね。


他(た)はこれ吾(われ)にあらず

意味:他人がしたことは私の修行にはならない。

 道元禅師は日本の曹洞宗を開いた方です。24歳のとき、禅を学ぶため中国に渡ります。その修行中、照りつける日差しの中で、キノコを干す老人に出会いました。「暑いのに大変ですね。誰かに代わってもらってはどうですか。」という道元禅師に老人が答えたのがこの言葉です。自分のなすべきことは自分でする。自分の成長のために。


足ることを知る(知足)

意味:必要なものは、じつは足りている。

 「人生に必要なのは勇気と、想像力と、・・・そして少しのお金だ。」チャップリン後期の自伝的作品「ライムライト」の台詞(せりふ)の一節です。若くして祖国イギリスから見知らぬアメリカに渡り、想像力を働かせて多くの名作を生みだし、貧しかった少年時代を乗り越えた彼の言葉は、人生の満足も不満も、この心次第でどうにでもなる、と教えてくれます。


月落ちて 天を離れず

 福厳守初(ふくごんしゅしょ)禅師は、修行僧たちに「さとりとは、どこから得ることができるだろうか?」と質問し、少ししてから、みずからこう答えました。「月は沈んでも無くなるわけではない。見えないだけで、月は変わらず天にあるのだ。仏法も同じで、さとり(月)はあなたたち(天)それぞれの中にあるのだよ。」


泥仏(でいぶつ)水を渡らず

意味:泥で作った仏像でも、水に入れるとくずれてしまう。

 どんなにありがたく大切なものでも、形あるものはこわれたり、なくしたり、はかないものです。別の言葉では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といい、すべてのものは絶えず変化し、永遠に続かないと説きます。しかし、頭で分かっていても、形あるものに、よりどころを求めてしまうものです。そんな自分の弱さに気づくことは、決して無駄なことではないでしょう。


日日是好日(にちにちこれこうじつ)

 中国は唐の終わりごろ、雲門文偃(うんもんぶんえん)という僧がいました。雲門禅師のもとには、多くの修行者がいましたが、ある日のこと、弟子たちを前に禅師は、「前に説法をして15日たつ。この15日間のことは過ぎたことだから問わないが、今からあとを、どう過ごすか、何かひとこと言ってみなさい」と言いました。しかし誰かが答える間もなく、禅師は自ら「日日是好日」と答えました。

意味:良い日もあれば悪い日もある。むしろ悪い日のほうが多いかもしれない。いま私はお前たちにこれからどうするかを聞いたが、そんなことを考えている時間はないぞ。いま・このときが大事であって、今日はいい日だったとか悪い日だったとか、振り返っている場合ではないのだ。どれも大切な一日ではないか。


日面仏 月面仏(にちめんぶつ がちめんぶつ)

 馬祖道一(ばそどういつ)禅師は多くのすぐれた弟子を育てましたが、80歳になり病床にふしました。ある弟子がお見舞いに来て、「和尚さま、近ごろお体はいかがですか?」と聞きますと、禅師は「日面仏 月面仏」と答えました。日面仏は長生きの仏さまで、月面仏はたった一日の命の仏さまです。「命は長くもあり短くもある。そのままに受け入れよう」という意味ですが、病床にあっても弟子に問答をする、禅師の生き方そのもののような言葉です。


八風(はっぷう)吹けども動ぜず

意味:人生にあらゆる風が吹いても、落ちついていきましょう。

 仏教では、私たちの心に吹きつけて、ざわつかせるものを「風」にたとえました。(1)利益 (2)衰退 (3)陰口 (4)名誉 (5)称賛 (6)悪口 (7)苦悩 (8)快楽 です。これら8つの風は、逆風(向かい風)もあれば、順風(追い風)もあります。「悪いことはいつまでも引きずらない。良いことはいつまでも浮かれない。心はゆれても、見失ってはいけない。」夜空に輝く月のように、どんな風にも吹き飛ばされない心を持ちたいものです。


はづべくんば明眼(みょうがん)の人をはづべし

意味:人の批判を気にするなら、物事をよく分かっている人からの批判を気にしなさい。

 これは、日本曹洞宗を開いた道元禅師の言葉です。何かをして、もし人から批判をされたら、心の中で「この人は分かっている人かな?」とつぶやいてみてください。よく分かっている人なら反省しましょう。そうでなければ、気にしないことです。もちろん反対に、自分がだれかを批判するなら、その前に心の中でつぶやきましょう。「私はよく分かっているかな?」と。


放てば手にみてり

意味:手放せば、手に入る。(道元禅師『正法眼蔵』)

 部屋を片づけるときに、まずしなければならないことは、物の量を減らすことだそうです。そして、「まだ使える」ではなく「使っている」ものを選ぶのです。使えるものを捨てるのはもったいない気がしますが、使っていないもので部屋があふれ、本当に必要なものが見つからないと困りますよね。いまの自分に必要なものは何か、考えさせられます。


花は黙って咲き、黙って散っていく

柴山全慶(元臨済宗南禅寺派管長)「花語らず」の冒頭の句

 名僧と呼ばれる方には、「語録」という、言葉や行いを記したものが弟子によって残されていますが、妙心寺を開いた関山慧玄(かんざんえげん)禅師にはありません。しかし、この「何も残さなかった」ということが、禅師の教えになっているのかもしれませんね。


万里(ばんり)片雲(へんうん)無し

意味:どこまで行っても、空には雲ひとつない。

 雲ひとつない青空は、とても気持ちがよく、仏教ではさとりの境地にたとえられます。しかし、晴れてばかりいては、雨も降らず、植物は枯れて、飲み水も不足してしまいます。もちろん、雨ばかり続けば、今度は太陽の光が恋しくなるでしょう。先ほど、さとりとは青空のようなものだと書きましたが、本当のさとりは、晴れようが曇ろうが、空の変化を楽しむことだと思います。ままならぬ人生のように。


人は仏心(ぶっしん)の中に生まれ 仏心の中に生き 仏心の中に息をひきとる

 鎌倉の臨済宗円覚寺派の管長であった朝比奈宗源老師は、4歳の時に母を、7歳の時に父を亡くしました。「死んだ両親は、どうなってしまったのだろう。」やがて、京都の妙心寺で修行し、答えを見つけました。「人はみんな、仏さまの心のような、安らかな世界に生きている。だから、私の父も母も、お釈迦さまと同じ、安らかな世界にいることだろう。」


人はみな 我が飢(う)えを知りて 人の飢えを知らず

 これは、江戸時代の禅僧、沢庵宗彭(たくあんそうほう)禅師の言葉です。「人はだれも、自分の苦しみはよく分かっても、人の苦しみは、なかなか分からない」という意味ですが、まさにその通りだと思います。人の苦しみが分かるなど、簡単なことではないのです。それでも、人に寄り添って、苦しみを分かろうとする気持ちは、だれの心にもあるのではないでしょうか。


非風非幡(ひふうひばん)

意味:動いているのは風でもなく、幡(はた)でもない。

 二人のお坊さんが、はげしく問答(もんどう)をしていました。見ると、お寺の境内にかかげてある幡(旗)が、風にゆられています。「動いているのは旗だろう」「いや、旗が動いているのではない。動いているのは風である。」そこに通りかかった一人の和尚(おしょう)さん。つい二人に言ってしまいました。「動いているのは風でも、旗でもない。お二人の心だ。」和尚さん、あなたの心も動きましたね。


平常心(びょうじょうしん)是れ道(どう)

意味:その時その時を大切にする心、これこそが道である。

 世の中にはいろんな「道」があります。茶道、華道、柔道、剣道・・・。そして、仏教にも「仏道」という道があります。これらの道に共通するのは、「こころ」を大切にする、ということです。技術は練習すれば、ある程度上達しますが、「こころ」をきたえることは、本当に難しいのです。


無事(ぶじ)是れ貴人(きにん)

意味:何の計らいもなく、あるがままにいる人が、心安らかな人である。

 何事もないということは、つまらないことのように思いますが、じつは幸せなことであったと気づくことがあります。ニュースを見ても、事故や災害、病気など、もし自分の身に起こったら・・・、と考えさせられます。それらは決して人ごとではありません。安らかな心は、いやなことから目をそむけないことから生まれるのでしょう。


放下著(ほうげじゃく)

意味:捨ててしまえ。

 こだわりなど捨てなさい。捨てなければいけないという、そのこだわりも捨てなさい。捨てたということすら捨てなさい。それでも捨てることができないのなら、それを担(かつ)いで行きなさい。


莫妄想(まくもうぞう)

意味:あれこれ考えすぎるのは、やめましょう。

 坐禅をすると、心が無になると思われますが、そんなことはありません。むしろ静かなところで座って、じっとしていると、余計なことばかり考えてしまいます。考えることは悪くないですが、考えすぎると疲れてまいってしまうでしょう。答えが出なくてイライラしたり、何を考えていたのか分からなくなります。この文章も何が何だか分からなくなってきました。この辺でやめておきましょう。


松に古今(ここん)の色無し 竹に上下の節(ふし)有り

意味:松は昔も今も常に緑で変わりがない。一方、竹は伸びながら上下に節ができる。

 松の緑は成長しても変わらないといわれていますが、やはり確かに年数を重ねています。一方、竹はいくつも節があって、そこには上下の区別はありますが、一本の竹の中では節に優劣はありません。今日という日が重なって一生になりますが、一日一日は違うものでしょう。松も竹も何も語りませんが、教わることばかりです。


妙手(みょうしゅ)、多子(たし)なし

意味:すぐれた方法とは、あれこれ小細工したものではない。

 花は、その種類によって成長の仕方が違います。水や日光の量、土の質や気温など、好みは様々です。しかし、どんな花でも成長するのにある程度の時間が必要なのは同じです。しっかりと大地に根を張り、くきを太くし、葉を広げることができなければ、水や養分を十分に取り入れたり、体を支えることができなくなるからです。花は、自分が咲くのに特別なものは必要ない、ということを知っているようです。


無一物中無尽蔵(むいちもつちゅうむじんぞう)

意味:何もないということは、無限にあるということだ。

 人は、何も持たずに生まれ、何も持たずに死んでいく、といわれます。あれもこれもと欲ばっても、一生のうちで手に入るものには限度があるでしょう。今あるものに感謝して、大切にしていきたいものです。


無功徳(むくどく)

意味:功徳ほしさにする者には、何の功徳もない。

 達磨(だるま)大師が中国に禅を伝えたころ、中国では仏教がとても盛んでした。とくに梁(りょう)という国の武帝(ぶてい)は仏教に帰依(きえ)し、各地にお寺を建て、僧侶を育てました。また自らも袈裟(けさ)をつけ、説法をします。そこに名高い達磨大師が来たので、さっそく宮中に招待しました。

武帝「大師さま、私はこんなにも仏教を大切にしています。きっと功徳があるのでしょうね。」
大師答えて「何の功徳もないわ。」


山高くして月上ること遅し

意味:山が高いと、なかなか月は姿を見せないが、やっと見えた月は、美しく輝いて見える。

 画家の平山郁夫は、基礎練習の大切さを説くなかで、「巨大なピラミッドができたのは、基礎となる底辺をしっかりと広げたから、石を高く積むことができた」と表現しました。しっかりした土台をつくることは時間がかかりますが、高い目標のためには不可欠です。反対に、目指す山を低くして、すぐに結果を求めたいと思うこともあるでしょう。正解がないだけに難しいですね。


両忘(りょうぼう)

意味:ふたつながら忘れる。

 ここでいう「ふたつ」とは、対立するふたつです。好きと嫌い、勝ちと負け、生と死・・・。いくらでもありますね。一方は良くて、一方は悪い、そんなイメージでしょう。でも、仏教では二つとも「苦しみを生むということでは同じ」と考えます。好きなことばかりできない苦しみ、勝ちつづける苦しみ、生きる苦しみ・・・。だから、良くても悪くても、そのことにこだわらなくていいのです。


冷暖自知(れいだんじち)

意味:その水が冷たいか温かいか、自分で知るしかない。

 外国の人に梅干しの味を教える場合、みなさんはどうしますか。おそらく、言葉で説明するよりも、一口食べてもらうことでしょう。このように、どんなに言葉を尽くしても、伝えられないことがあります。物事の本当のことは、人から聞いただけでは分かりません。物事を知るためには、実際に自分の目で見たり、行動したりするしか方法はない、という言葉です。


吾(わ)が心、秋月(しゅうげつ)に似たり

意味:私の心は、秋の空に澄んでいる月のようだ。

 平安時代、栄華を極めた藤原道長は祝宴の席で、「この世をば わが世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠みました。同じ時代、清少納言は「月みれば 老いぬる身こそ 悲しけれ つひには山の 端(は)にかくれつつ」という和歌を残しています。同じ月を見ても、その思いはそれぞれですね。みなさんは、月をどのように眺めるのでしょうか。


和顔愛語(わげんあいご)

意味:表情はおだやかに、言葉はやさしくありましょう。

 つらいときや苦しいときは、つい表情も暗くなりがちです。心に余裕がなくなって、言葉がきつくなるかもしれません。そんなときこそ、あえて笑顔を作ってみましょう。やさしい言葉をかけてみましょう。不思議と心は軽くなります。まわりの人ともなごやかになります。お金も、特別な力もいりません。いつも心の片すみにとどめておきたい言葉です。


 

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