天王岩の話
ときは、源平合戦が終わり、源氏の世となったころの話です。源氏の大将、源頼朝は東海道ぞいにある「飽海(あくみ)」という所にしばらくいました。
ある日のこと、頼朝は数人の家来とともに、渥美(あつみ)半島のほうまで狩りに出かけました。すると、あまりに狩りに熱中しすぎて、夕方になっていました。
「殿、そろそろ帰りませぬか。」と家来が言うと、頼朝も「そうじゃのう。」と帰りじたくを命じました。
そのときです。一匹の大きなきつねが、目の前を通りかかりました。「みごとなきつねじゃ。あれはわしがしとめる。」と、頼朝がきつねを追いかけるので、家来の人たちも続きました。
きつねのほうも、だまって射られるわけにはいきません。頼朝の矢をなんどもかわしているうちに、いつしか日が暮れていました。「殿、帰り道が分からなくなってしまいました。」と家来が言うので、頼朝は「それなら、民家を探して聞いてまいれ。」と命じました。
家来の一人がようやく林の中に明かりを見つけました。「殿、あそこに明かりが見えます。ひとまず、参りましょう。」頼朝たちが林のほうに向かうと、そこは民家ではなくお寺でした。山門には月明かりに「寶樹山萬福寺」の額が浮かんでいます。
山門を入ったところに大きな石がありました。「殿、しばらくこの石に腰をかけてお待ちください。」そこで、家来の一人が庫裏(くり:僧侶の住まい)に行って声をかけました。「どなたか、ございませぬか。」しかし返事はありません。
家来は帰って頼朝に報告します。「明かりはありますが、だれもおりませぬ。」すると、山門の外を、ずきんをかぶった一人の娘が通りかかりました。「これ、そこを行く娘。そちはこの村の者か。」「はい。」娘はおびえた様子で答えます。
「心配するな。われらは道に迷ってこまっている。ここは何という所か。」「はい、ここは小浜の坂口という所です。」「そうか。では飽海へ行く道を知らぬか。」「知ってございますが、この夜道では分かりにくくございます。よろしければ、私がご案内いたしましょう。」
さっきから家来と娘の会話を聞いていた頼朝が口を開きました。「せっかくの申し出じゃ。娘よ、そなたの好意をおろそかにはせぬぞ。」こうして、頼朝たちは、娘の案内で無事に飽海の館にたどりつきました。
「無事に帰られたのは、そなたのおかげじゃ。何かほしいものがあれば言うてみよ。」頼朝が言うと、娘は、「こまっている方がいればお助けするのは当たり前のことでございます。何もいりませぬが、もしお聞ききとどけくださるのなら、今後、狩りではきつねを殺さぬように願います。」
「なんとそれだけでよいのか。」頼朝は不思議に思いながらも感心します。「分かった。今後、狩りではきつねを殺さぬ。今日のこと、生涯忘れぬぞ。」
こういうわけで、頼朝がしばらく腰をかけていた石が現在、萬福寺の境内にあり「天王岩(てんのういわ)」と呼ばれています。ちなみに、頼朝たちの道案内をした娘であるが、きつねの化身ではなかったかと村ではいわれましたが、けっきょく分からないままであったということです。
<おわり>
「ささおどり」との関わり
豊橋の祇園祭りに吉田神社で行われている「ささおどり」という、頼朝の行列の前を行くものがあり、これは「天王岩」のはなしに書いたように、娘に化けたきつねの道案内の伝説がゆらいになっていると考えられます。現在は行われていませんが、江戸時代の末ごろまでは、この萬福寺から「ささおどり」の行列が出て吉田神社に向かったといわれています。
行列が出たもう一つの伝説は、吉田神社が初めて神さまをお迎えするとき、小浜の小座口まで神さまが船でやってきて萬福寺のこの石に休み、一晩を村人とともに過ごしたというものです。たくさんのお供物をささげ、次の日には村人が吉田神社までお輿のお供をしたと伝えられています。これより毎年、吉田神社の祭礼には小浜の村人が道具などの準備をして、笛や太鼓を鳴らして行列をすることになったということですが、いつしかなくなってしまったということです。
(「橋良村舊事蹟草稿」より)
天王岩にまつわるもう一つの由来
天王岩には、ほかに後村上天皇や長慶天皇が腰をかけたという言い伝えもあります。両天皇とも、南北朝時代の南朝の天皇でした。後村上天皇説のほうは、伊勢(三重県)から奥州(東北地方)に向かう途中で嵐にあい、篠島(しのじま)に流れついたときに多くの家来が亡くなって、一部がこの地につき葬られたということに由来するものです。長慶天皇説は、はっきりとしたことは分かっていません。