白隠禅師坐禅和讃

白隠禅師のはなし

 「駿河には 過ぎたるものが ふたつあり 富士のお山と 原の白隠」

 江戸時代、幕府がつくった檀家制度によって、僧たちは布教や修行をしなくなりました。そんな中、白隠禅師は人々に教えを説き、すぐれた弟子を多く育てました。そのため、禅師は「臨済宗の中興の祖」といわれます。中興とは、一度おとろえたものを再び盛んにすることです。


 白隠禅師は、貞享2年(1685)12月25日、駿河の国(静岡県)の東海道の「原(はら)」という宿場町に生まれました。岩次郎(いわじろう)と名付けられた少年は、日蓮宗の熱心な信者であった母親に連れられて、よく近所のお寺に説法を聞きに行きました。

 ある日、岩次郎がお風呂で突然泣き出しました。両親が理由をたずねてみると、風呂をたく火の音を聞いていたらお寺での地獄のはなしを思い出した、というのです。

 岩次郎は思います。「虫や魚の殺生をしてきた自分は、きっと地獄に落ちる。地獄に落ちないためには、坊さんになるしかない。」


 一方、両親は利発な岩次郎を武士にしたいと考えていましたが、岩次郎の固い決意にうたれて、岩次郎が15歳になると、原にある松蔭寺(しょういんじ)にあずけました。松蔭寺は鎌倉時代に建てられましたが、荒れていたのを岩次郎の父のおじが再興した、臨済宗の小さなお寺です。

 岩次郎は「慧鶴(えかく)」という僧名を与えられ、さっそく修行にはげみましたが、知識や教養は身につくものの、地獄に落ちたくないから出家した慧鶴には満足できず、芝居を見たり詩文を作ったりして、修行に身が入りませんでした。


 そんな中、慧鶴のもとに母の死が知らされます。「このままではいけない。」と反省した慧鶴は、ある日、ふと手にした本の一節に目をとめます。それは、自らの足にきりをさして眠気と闘いながら修行をした人のはなしでした。

 このころから慧鶴は再び修行にはげみ、各地によい師を求めては、坐禅に打ちこみます。

 「この300年、私ほど痛快なさとりを得たものはいない。」

 はげしい修行の日々は、いつしか若い慧鶴の、うぬぼれの心を育てていました。


 そんな慧鶴が24歳の時、生涯の師、道鏡慧端(どうきょうえたん)禅師に出会います。人々から「正受老人(しょうじゅろうじん)」とよばれていたこの禅僧は、信州(長野県)の小さな庵に、名声とは無縁の暮らしをしていました。

 64歳の正受老人による、8か月にわたる厳しい指導のもとで、慧鶴は本当のさとりに達します。

 「さとりの後の修行こそ大事である。」さとりとは、その場かぎりのものではない、というのが正受老人の教えです。


 その後の慧鶴は、33歳で故郷の松蔭寺の住職になり、白隠と名を改め、明和5年(1768)、12月11日に84歳で亡くなるまで、師の教えを守って精進を続けました。また、正しい坐禅の方法を説いた『夜船閑話(やせんかんな)』など、多くの書物もあらわしました。

 晩年、白隠は「南無地獄大菩薩」という書をいくつも残します。地獄に対する白隠の答えでした。

 「地獄とは、人の不安や恐怖心から生まれるもので、そのことに気づかせてくれた地獄こそ、私を仏の道に導いてくれた。ありがたい。ありがたい。」


仏さまの「心」はどこにある?

 「坐禅和讃」は、江戸時代の臨済宗の禅僧、白隠慧鶴によって書かれたといわれています。「禅」は中国から日本に伝わりましたが、そのため坐禅の教えも漢字によるものが一般で、人々に分かりやすいものではありませんでした。

 そこで白隠禅師は、人々に坐禅の素晴らしさを伝えるため、親しみやすい七・五調の和文で示しました。


 水が固まると氷になり、氷が溶けると水になります。しかし、ひとたび水が氷になると、それまで自由に動いていたようにはいかなくなります。また、氷は割れたり欠けたりしますが、水にはそんなことはありません。

 人の心も同じです。心がかたくなになると、考え方がせまくなったり、他人と争って傷ついたりします。

 白隠禅師はまず、心という尊いものが自分の中にあることを説いていきます。坐禅とは、この心をつかむための手段なのです。


衆生(しゅじょう)本来(ほんらい)仏なり
みんな、そのままで仏さまだ。

水と氷の如(ごと)くにて
それは、水と氷のようなもので、

水を離れて氷なく
水がなければ氷もできないのと同じように、

衆生の外(ほか)に仏なし
私たちのほかに、仏はいない。

衆生近きを知らずして
しかし人々は、仏がこんなにも近くにいるのに(自分自身が仏であることに)気づかないで、

遠く求むるはかなさよ
遠くに求めてばかりいるとは、なんと愚かなことだ。

譬(たと)えば水の中に居て
たとえるなら、それは水の中にいながら、

渇(かつ)を叫(さけ)ぶが如(ごと)くなり
のどが渇いた、と叫んでいるようなものだ。

長者(ちょうじゃ)の家の子となりて
また、裕福な家の子に生まれていながら、

貧里(ひんり)に迷うに異(こと)ならず
貧しいと悩んでいるのと同じことだ。


 長者の家の子でありながら、貧しさに迷っているはなしは「法華経(ほけきょう)」というお経の中に出てきます。

 あるところに父親がいました。その父親には、たった一人の息子がいましたが、若いころに家出をしてしまい、何年もゆくえ知れずでした。父親は八方手をつくしましたが、見つけることができないまま、50年もの時が流れました。

 いつしか父親は財産をきずき、大きな蔵を建て、立派な屋敷に住む長者となっていました。

 ある日のこと、父親は屋敷の前で偶然、一人の貧しい身なりの人と出会いました。「息子だ。」父親はすぐに気づきましたが、息子のほうは、この長者が自分の父親だとは夢にも思いません。

 さっそく人に命じて、息子を連れ戻そうとしましたが、事情が分からない息子は、用心して屋敷に近づきません。そこで、父親は息子を使用人としてやとい、便所そうじからはじめ、やがて座敷の仕事や財産の管理をまかせるようにしました。

 やがて老いた父親に死が訪れます。その臨終のとき、父親はみんなの前で、その使用人がじつは自分の一人息子であることを明かします。こうして息子は、求めなくても本来の財産をつぐことができたのでした。


心はつかみどころがない

 禅は「禅定(ぜんじょう)」ともいわれ、心を静め、落ち着かせることをいいます。そして、その方法として坐禅があるのです。

 しかし考えてみれば、心とは不思議なものです。同じ一つの心でありながら、ときに喜んだり、ときに怒ったりするのですから、つかみどころがありません。自分のものでありながら、思うように使いこなすことのできないもの。それが心です。


 それでは、なぜこの心は変化するのでしょうか。お釈迦さまは、こう説いています。

 「これがあれば、あれがある。これが生ずれば、あれも生ずる。これがなければ、あれもない。これがなくなれば、あれもなくなる。」

 心そのものだけで喜びや怒りが起きるのではありません。それには、かならず「原因」があります。したがって、不安や迷いの気持ちがあれば、やはりそこにも「原因」があるはずです。原因を知り、それを取りのぞけば、不安や迷いはなくなります。


六趣輪廻(ろくしゅりんね)の因縁(いんねん)は
私たちは、地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人間・天上(てんじょう)という、6つの迷いの世界を行ったり来たりしている。その迷いの原因は、

己(おのれ)が愚痴(ぐち)の闇路(やみじ)なり
自分の中に仏がいることに気がつかないでいる愚かさであり、それはまるで暗やみの道である。

闇路(やみじ)に闇路を踏(ふ)み添(そ)えて
こういう暗やみの道を次から次に歩き続けて、

いつか生死(しょうじ)を離(はな)るべき
いつになったら生きていくことの苦しみや、死への恐怖を乗りこえることができるだろうか。

夫(そ)れ摩訶衍(まかえん)の禅定(ぜんじょう)は
さて、そこで自分だけでなく、あらゆる人を救おうという禅定、つまり坐禅は、

称歎(しょうたん)するに余りあり
ほめたたえても、余りあるほどである。


 さて、仏教では「六道輪廻(りくどうりんね)」ということがいわれます。六道とは6つの迷いの世界、輪廻(りんね)とは山手線のように同じところをぐるぐる回るということです。

 古代インド地方では、人は亡くなると生前の行いによって、死後の世界で苦しんだり、生まれ変わったりすると考えられていました。すべてが満たされているはずの天上界も、迷いの世界の一つです。

(1)地獄道……自らの罪で苦しむ世界

(2)餓鬼道……欲望が満たされない世界

(3)畜生道……弱肉強食の世界

(4)修羅道……自分勝手な戦いの世界

(5)人道………人として持つ悩みの世界

(6)天道………失うことへの不安の世界


 お釈迦さまは、人の悩みには大きく3つの原因があると説きました。

●むさぼりの心(こだわる心)

●怒りの心(憎しみの心)

●愚かな心(知ろうとしない心)

 悩みの原因に気づかないで心の安らぎは得られない、というのが白隠禅師の教えです。


坐禅で心を、自分を見つめる

 お経には、「波羅蜜(はらみつ)」「波羅蜜多(はらみた)」という言葉が出てきます。これは、「むこうの岸に行く(到彼岸:とうひがん)」という意味の古代インド語の「パーラミター」という読みをそのまま漢字にあてたものです。

 インドや中国では、川といっても海のようなもので、むこう岸はまだ見ぬあこがれの土地でした。そのむこう岸にわたるため、お釈迦さまは人々に6つの行いを示しました。

(1)布施(ふせ)……自分のできる範囲で他人の手助けをすること

(2)持戒(じかい)……人に言われる前に自分から身を正すこと

(3)忍辱(にんにく)……思い通りにいかなくても怒らずにたえること

(4)精進(しょうじん)……正しい目的のために努力を続けること

(5)禅定(ぜんじょう)……心を落ちつけて自分を見つめること

(6)智慧(ちえ)……自分の思いこみや都合で物事を考えないこと

 これら6つの行いをあわせて六波羅蜜(ろくはらみつ)といいます。


布施(ふせ)や持戒(じかい)の諸波羅蜜(しょはらみつ)
人に分け与えたり、自らを戒めたりするなど、仏の教えを身につけるための行いや、

念仏(ねんぶつ)懺悔(さんげ)修行(しゅぎょう)等(とう)
念仏を唱えたり、自らの行いを反省したり、修行したり、

其品(そのしな)多き諸善行(しょぜんぎょう)
そのほか、多くのさまざまな善い行いも、

皆(みな)この中(うち)に帰(き)するなり
すべて、坐禅をして心を落ちつけ、自分を見つめることに行きつくのである。

一坐(いちざ)の功(こう)をなす人も
だから、たとえ線香一本ほどの、ほんのちょっとの間、坐禅をしただけの人でも、

積(つ)みし無量(むりょう)の罪(つみ)ほろぶ
そこで真剣に自分と向き合うのなら、生きているうちに知らずに積み重なってしまった数えきれない罪でさえも消えていくだろう。


 布施には3種類あります。

●財施(ざいせ)
   ……自分の持っているお金や物を分け与えること

●法施(ほうせ)
   ……自分の知っている知識を教えること(仏の教えを説くこと)

●無畏施(むいせ)
   ……不安や恐怖を取りのぞくこと(自信を与えること)

 布施とは、もともとは文字どおり「布を施す」ことでした。僧侶の読経や説法のお返しに、人々は自分たちにできる限りのこととして、布を渡しました。僧侶たちがこの布をぬい合せて身につけたものが袈裟(けさ)のはじまりであるといわれています。


 さて、坐禅和讃とは「坐禅はこんなにも素晴らしいものである」ということを白隠禅師が説いたものです。そして坐禅が重要な理由は、すべてのよい行いの基本となるものだからです。

 坐禅をすることで、心おだやかに日々を暮らし、その行いも自然と仏の教えにかなっていくと考えました。「ものごとをはじめる心が正しくなければ、その成果は期待できない」といいますが、心をととのえるために坐禅をするのです。


自分とは何か?

 お盆の行事では施餓鬼会(せがきえ)をします。これは、むやみに物を欲しがって他人に与えなかった人が、死後に行くとされている餓鬼道(がきどう)に落ちた人々(餓鬼)に施すものです。餓鬼に施した功徳(くどく)をもって、ご先祖さまを供養するというものです。

 もちろん、死後の世界の考えは仏教を理解するためのものです。仏教は死後よりも、生きている「いま」が大切なのです。


 仏教では、自分がよい行いをすれば誰かが助かると考えます。人の役に立つことが「功徳(くどく)」の意味です。この功徳を自分のためでなく、さらに他人のために積むことを「回向(えこう)」といいます。文字どおり、めぐらし向けるのです。

 臨済宗を開いた臨済義玄(りんざいぎげん)禅師は、自分から出ている光(功徳)を他人に向けて、その照り返っている自らの輝き(尊さ)を見つめなさい、と説いています。また、人によい行いをすれば、よい結果が自分に返ってくるのです。


悪趣(あくしゅ)いずくに有(あり)ぬべき
地獄や餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)という、悪行(あくぎょう)を積んだ報いとして行かなければならない場所など、どこにあるというのだろうか。

浄土(じょうど)即(すなわ)ち遠からず
また、極楽浄土という所も、どこか遠くにあるというわけではないのである。

辱(かたじけ)なくも此(こ)の法(のり)を
ありがたいことに、この仏の教えを

一(ひと)たび耳にふるる時
縁あって一度でも耳にしたときに、

讃歎(さんたん)随喜(ずいき)する人は
その教えをたたえ、うれしさを感じるような人であれば、

福を得(う)ること限りなし
かぎりない幸福を得ることだろう。

いわんや自(みずか)ら回向(えこう)して
ましてや聞くだけでなく、自ら教えを実際に行って、

直(じき)に自性(じしょう)を證(しょう)すれば
坐禅などで直接に、自分とは何かを見つめようとすれば、

自性(じしょう)即(すなわ)ち無性(むしょう)にて
自分とは、結局「これ」と言い切れるような確かなものではなく、

すでに戯論(けろん)を離れたり
こうなれば、もはや「地獄」などといった話は、さらに確かなものではなく、意味のないことだと気がつくのである。


 白隠禅師は「自性(じしょう)は無性(むしょう)である」と説いています。これは、「目に見えたり、実体のあるものは、はっきりしているようで、よく分からない」という意味です。

 坐禅では、よく自分を見つめるといいますが、考えてみると自分と他人との違いはどこにあるのでしょうか。顔や性格など表面の部分を取りのぞいて、残った「自分」は、他人と何も変わらないことに気づきます。


心にはカタチはない

 「因果応報(いんがおうほう)」という言葉があります。これは、よい行いをすればよい結果が生まれ、悪い行いをすれば悪い結果が返ってくるという考えです。

 「因(いん)」とは原因のことで、「果(が)」とは結果のことです。仏教では、結果も大切ですが、それ以上に原因のほうに注目します。「花が咲いたのは種をまいたからだ。」というときの「花が咲いた」が結果で、「種をまく」が原因です。


 しかし、種をまいただけでは花は咲きません。水や日光や肥料(ひりょう)などが必要になります。これら原因と結果を結びつけるものを「縁(えん)」といいます。

 また、同じ種類の種(原因)であっても、環境や条件(縁)によっては、同じ花が咲く(結果)とはかぎりません。また、結果もそれで終わりというものではなく、次の原因のもとになります。花は咲き、やがて枯れ、種を残すのです。白隠禅師は原因と結果を区別してはいけない、と説きました。


因果一如(いんがいちにょ)の門ひらけ
原因と結果は切り離すことのできない同じものだが、そのあいだに門を作って、結果のほうに目を向けてしまう。その門を開きなさい。

無二無三(むにむさん)の道(みち)直(なお)し
そうして、二つも三つもない、ただ一つの教えの道をまっすぐに歩いていくのである。

無相(むそう)の相(そう)を相として
その道を歩いていくと、確かなこと、絶対的なこと、というものがないことが分かってくる。自分もふくめて確かに「これだ」と言い切れるものがないことが分かってくる。

行くも帰るも余所(よそ)ならず
そうなれば、その道を行ったり来たり、自由自在に歩き回ったとしても、もう迷うことはなくなり、

無念(むねん)の念(ねん)を念として
また、「こうでなくてはならない」という考えから離れて、物事の本当に大切なことを見るように心がければ、

うたうも舞(ま)うも法(のり)の声
うたうことも舞うことも、なすことすべて、自然と仏法にかなうことになるのである。


 坐禅をするときに、よく「無になりなさい」といわれます。しかし、これは何も考えてはいけない、というわけではありません。むしろ坐禅をすると、いろんなことが頭に浮かんできます。

 何も考えないということはできない、ということに気づくことから坐禅ははじまります。


 自分の心でさえ思いどおりにならない、ということを知ることを、白隠禅師は「無相(むそう)」と「無念(むねん)」という言葉で表しました。無相とは、「確かな形がない」ということで、無念とは「確かな心はない」ということです。

 すべて、ものごとは変わり続けていくことを「諸行無常」といいます。昨日の自分と今日の自分は同じようで違っています。原因と結果がくり返すように、たえず変化するのです。「自分を見つめる」ということは、自分とはこういうものだ、という思いこみから離れて、変わっていく(本来の)自分に気づくことなのです。


苦しみは心から生まれる

 仏教では、人がさとりを得るようすをハスの花にたとえます。ハスの花は白く、泥の中に咲きながら、泥によごれません。さとりも同じように、欲などの煩悩(ぼんのう)や人生の苦しみの中から生まれます。

 「さとり」とは気づくことです。気づくためには、ものごとをよく見なければなりません。自分の悩みや苦しみの原因を見つめるのです。


 すると、悩みの原因は自分の中にある「こうでなければならない」というこだわりの心や、思ったようにならない腹立たしさ、自分の都合のいいように考えるものの見方からきていることに気づきます。自分を苦しめているのは自分なのです。

 しかし反対に言えば、「自分を苦しみから救うのも自分」ということになります。つまり、「こうでなくてもいいのだ」とこだわらず、思いどおりにいかないことのほうが多いと考え、自分勝手にものごとを見ないようにすればいいのです。


三昧(ざんまい)無礙(むげ)の空ひろく
心を落ちつけて、集中して坐禅をすることで、何もさえぎるものがない空のように、心は自由自在で広く、

四智(しち)円明(えんみょう)の月さえん
空には、欠けることのない真ん丸とした月が明るくさえわたっているように、自分の心を4つの智慧(ちえ)が照らしていることに気づくだろう。

此(こ)の時 何をか求むべき
この自分の心を照らす明かりに気づいたとき、何かほかに求めるものがあるだろうか。

寂滅(じゃくめつ)現前(げんぜん)する故(ゆえ)に
心が静まりかえって、迷いや悩みが目の前に、ありのままにあらわれているのだから。

当処(とうしょ)即(すなわ)ち蓮華国(れんげこく)
迷いや悩みのあるこの世界が極楽浄土であり、

此(こ)の身(み)即(すなわ)ち仏なり
迷いや悩みのあるこの自分自身が仏なのだ。


4つの智慧(ちえ)とは以下のものです。

(1)大円鏡智(だいえんきょうち)
  ……鏡のように、あらゆるものをありのままに見つめること。

(2)平等性智(びょうどうしょうち)
  ……自分をふくめたすべてのものが平等であることに気づくこと。

(3)妙観察智(みょうかんざつち)
  ……平等の中にあってもそれぞれ同じものがないことを知ること。

(4)成所作智(じょうしょさち)
  ……教えを実際におこなって、ものごとを完成させること。


 人は、生まれてきたからには苦しみから逃れることはできません。年をとる苦しみ、病気になる苦しみ、死ぬ苦しみ・・・。しかし分かっていながら、年はとりたくないし、病気にはなりたくないし、死にたくないと思ってしまいます。

 しかし白隠禅師は、そういった迷いや悩みの世界こそ、自分を知り、世の中を知るきっかけになると考えました。

 「衆生本来仏である。みんな、迷っている。みんな、悩んでいる。あなただけではないのだ。」と。

<おわり>


 

このページのトップへ