仏教が目指すもの
仏教とは、お釈迦さまの教えです。
私たちが、心静かで安らかになるには、どうしたらいいのか?その方法を、お釈迦さまは、私たちに教えてくれるのです。
仏教は、今から約2500年前に始まりました。
臨済宗や浄土真宗など、さまざまな宗派がありますが、どの宗派も目指しているのは、「心静かで安らかになること」です。
しかし、この世に生まれ、生きていると、心がざわついたり、悩みが次々に起こります。
人の悩みは、尽きないのです。
人の悩みは、なぜ生まれるのでしょうか?
お釈迦さまは、悩みを生み出す原因は「3つ」あると説きました。
(1)満たされない欲望
(2)自分勝手な怒り
(3)ものごとは変わっていくことを知らないこと
たとえば、何をやっても思い通りにならないことがあります。
これは、自分の「こうなってほしい」という欲が満たされないから生まれる悩みです。
悩みは、自分の心から生まれるのです。「だれかや何かのせい」ではありません。
悩みが「だれかや何かのせい」だったら、永遠に悩みは尽きないでしょう。それは、自分の思い通りにならないものだからです。
「だれかや何か」を、自分の都合のいいようにすることはできません。
悩んでいる自分の考えのほうを変えるしかないのです。
お釈迦さまは、永遠に続くものはない、と説きました。
「すべては移り変わっていく。変わらないものなどない。あなた自身も変わり続けているのだから、その考えにこだわる必要はない。」
悩みを生み出すといっても、欲や感情を無理に押さえ込みなさい、と仏教は言いませんし、そんなことはできません。
むしろ、欲があるから生きがいがあり、感情が起こるのも当たり前です。
まずは、自分の欲や感情が、悩みを生んでいることを見つめましょう。
一切は苦しみである
お釈迦さまは、「人生はすべて苦しみである」と説きました。
年を重ねていくにつれ、体が重いように動かず、不満を感じてしまうことがあります。
また、病気になるのではないかという不安や、死ぬことへの恐れは、だれにでもあることだと思います。
「この世に生まれてきたことが、すべての苦しみの始まりではないか」と、お釈迦さまは考えました。
お釈迦さまの母親が、自分を生んで、間もなく亡くなってしまったからです。
自分が生まれたことで、母親が死んでしまったのではないかという思いは、お釈迦さまの少年時代に暗い影を落とし、人生を考えるきっかけになったことでしょう。
生・老・病・死の4つの苦しみからのがれるため、心の安らぎを求めて、お釈迦さまは出家をし、修行をしました。
しかし、いくら厳しい修行をしても、4つの苦しみからのがれることはできません。
それどころか、さらに4つの苦しみがあることに、お釈迦さまは気づきました。
●愛するものと必ず別れてしまう苦しみ
●うらみや憎しみのあるものや、いやなことに出会ってしまう苦しみ
●ほしいものが手に入らない苦しみ
●心や体をコントロールできない苦しみ
行き詰ったお釈迦さまは、厳しい修行をやめて、静かな場所に座り、さとりを開きました。
「生・老・病・死などの苦しみからは、のがれられない。それらから、のがれようとするから苦しむのだ。思い通りにならなくても、あるがままでよいのである。」
苦しみとは、よく分からないことや、どうしようもできないことから生まれます。受け入れて、いま、できることをするだけです。
仏教では、自分の思い通りに欲望を満たすことを、人生の目的にしてはいけない、と説きます。
たとえ、欲望が満たされたとしても、その欲望が、さらなる欲望を生み、満足することはないからです。
心の安らぎを求めるなら、自分のやるべきことをした結果、思い通りになることもある、と考えるのがお釈迦さまの教えです。
極端はいけない
仏教では、「生き方や、ものごとを考えるときは、極端にかたよらないで、バランスよくしなさい」といわれます。
食事でも、好きなものばかり食べていると、栄養がかたよってしまいます。
バランスよく生きなさい、という教えは、お釈迦さまの経験からくるものです。
お釈迦さまは、インドの北にあった小さな国の王子として育てられました。
国のあとつぎとして、裕福な生活を送っていましたが、ぜいたくをしていては、生・老・病・死の苦しみからのがれられないと思い、城を出て修行をします。
お釈迦さまは、断食をしたり、長時間息を止めるなど、自分を痛めつけるきびしい苦行を6年間つづけました。
しかし、苦行をつづけても、人生の苦しみは消えません。
「ぜいたくな暮らしをすて、きびしい修行をすれば、何か分かると思ったが、そうではなかった。」
お釈迦さまは苦行をやめ、しっかりと食事をとり、休んで体力を回復したあと、木かげで心静かに座って考えました。
そして、人生の悩みや苦しみを、そのまま受け入れることが、心を安らかにするということに気づいたのです。
「欲望のままに生きようとすることも愚かだが、自分を苦しめることに夢中になることも、同じように愚かである。」
お釈迦さまは、苦行へのこだわりを捨てることで、心の安らぎを得ることができたのです。
お釈迦さまの弟子に、足から血を流すほど真面目に修行をしている人がいました。
がんばって修行しているのですが、なかなか成果が出ないその弟子に、お釈迦さまは「楽器の弦は、強くても弱くても、いい音は出ない。強すぎず弱すぎず、ちょうどよい加減にしめると、いい音が出る。修行をそのようにしなさい。」と、修行の心がまえを教えました。
この教えを聞いて、その弟子は、ほどなく心の安らぎを得たということです。
何かに一所懸命になることは、悪いことではありません。
大切なのは、物事にのめりこみすぎないように、こだわりを捨て、自分をコントロールすることではないでしょうか。
修行をする目的
お釈迦さまの生きていたころの仏教は、修行をした人だけが救われる、という考えでした。きびしいルールを守り、自分自身のために修行をするのです。
しかし、お釈迦さまが亡くなって、弟子たちが教えを経典にまとめるうちに、人々を救うことも修行の目的ではないか、という考えが生まれました。
もともと、お釈迦さまが出家をして修行したのは、「人生の苦しみから自分自身が救われるには、どうしたらいいだろうか?」という思いからでした。
しかし、さとりを得たお釈迦さまは、その教えを人々の苦しみを救うために説いて回りました。
お釈迦さまは、分けへだてなく人々に心の安らぎを与え、苦しみを取りのぞくことが、自分の役割と考えたのかもしれません。
人のために何かをすることが、結局は自分のためになるという考えが仏教にはあります。
たとえば、人に親切にすれば、その親切がめぐりめぐって、自分にいいように返ってくることもあるでしょう。
見返りを期待するわけではないですが、「いいことをすればよい結果となり、悪いことをすれば悪い結果となる」というお釈迦さまの教えは、だれもが心当たりのあることだと思います。
自分によい結果がおとずれるよう心がけておくことが6つあると仏教では説きます。
(1)自分のものを与える
(2)行いを反省する
(3)苦しみを耐える
(4)努力を続ける
(5)気持ちを集中する
(6)物事をありのままに見る
6つの心がまえを、くわしく見てみましょう。
(1)「自分のものを与える」とは、お金や財産だけでなく、自分の力を人のために使うことです。
(2)「行いを反省する」とは、一日一秒を大切に生きることです。
(3)「苦しみに耐える」とは、どんな悩みや苦しみも、永遠に続くことはないことを知ることです。
(4)「努力を続ける」とは、自分を信じて希望を持つことです。
(5)「気持ちを集中する」とは、心を落ち着かせ、あれこれ空想しないことです。
(6)「物事をありのままに見る」とは、自分に都合よく考えないことです。
すべての苦しみは、自分の心が勝手に生み出したものです。心がまえで世界は違って見えるのです。
すべては変わりゆくもの
お経のなかで、いちばん有名なお経といえば「般若心経」ではないでしょうか。
般若心経には、「すべてのものは変化するものであり、変わらないものなどない。むしろ変わりつづけることが、ものごとの本当の姿なのである。」ということが説かれています。
ものごとは変わりつづける、という教えは、お釈迦さま自身にも当てはまります。
お釈迦さまは、ある国の「王子」として生まれ育ちました。
やがて人生に悩み、出家して「修行者」となります。
その後、さとりを開いて人々から「ブッダ(目覚めた者)」と呼ばれました。
お釈迦さまも、一生のあいだに変わりつづけたのです。
般若心経は、さらに「何ものも変わらないものはないのだから、ものごとにこだわっても仕方ない」と説きます。
こだわりとは、「こうでなければならない」と、自分で自分をしばりつけるようなものです。
お釈迦さまも、はじめは「修行とは苦しむものだ」とこだわっていましたが、苦行では何も変わらないことに気づいて、苦行をやめてから心が落ちついて安らかになったといいます。
こだわりが強いと、他人にも、自分の考えを押しつけるようになります。たいてい他人は、自分の思い通りにはならないので、結局、自分も他人も傷ついてしまうことが多いでしょう。
こだわっても、苦しむのは自分自身なのです。
もちろん、こだわることがすべていけない、というわけではありません。
こうなりたい、こうであってほしい、という理想を持つことは大切です。
そして、その理想に向かって努力することは素晴らしいと思います。
ただ、自分の理想通りにいかなかったときに、「道はほかにもある。こだわらなくていいんだ」と思えば、少しは気が楽になるのではないか、と考えるのが仏教なのです。
仏教は、病気をなおす薬にたとえられます。
健康なときは、薬がいらないように、仏教も、悩みがなければ必要ありません。
しかし、もし、悩みや苦しみが生まれたときは、仏教の考え方を参考にしてみてはいかがでしょうか。
<終わり>