般若心経

摩訶般若波羅蜜多心経


 とらわれない こころ
 かたよらない こころ
 こだわらない こころ
 ひろく  ひろく
 もっとひろく
 これが般若心経
 空(くう)のこころなり

 これは、薬師寺の管主であった故・高田好胤(こういん)師の言葉です。

 般若心経は、よく読まれるお経ですが、その内容はあまりよく知られていません。短いがゆえに難しいのです。


 般若心経をみますと、漢字で書かれています。お経はお釈迦さまの言葉ですので、インド地方の言葉で書かれているはずですが、これには理由があります。

 唐の時代、玄奘(げんじょう)という若いお坊さんが遠くインドを目指して旅をしていました。仏教の本場から経典を持ち帰るためです。インドに着いた玄奘は、ぼう大な数の経典をそのまま書き写して唐の都に戻り、自分の国の言葉に翻訳しました。

 その後、中国語に翻訳されたこれらのお経が遣唐使などで日本に伝わったのです。

 それでは、般若心経の題名を見ていきましょう。お経の題名のことを「経題(きょうだい)」といいます。経題が分かれば、そのお経が分かるというくらい重要なものです。


摩訶(まか)……大いなる(すぐれた)
般若(はんにゃ)……智慧(ちえ)
波羅蜜多(はらみた)……彼岸にいたる
心経(しんぎょう)……大切な教え


 よって、「大いなるすぐれた智慧によって彼岸にいたるための大切な教え」が般若心経であるということです。

 先ほど、お経は翻訳されたものだと書きました。しかし、経題の中で「心経」以外の部分は、「マハー・パンニャ・パーラミター」という古代インドの言葉(サンスクリット語やパーリ語)を、同じ読みをする漢字で当てたもので、漢字そのものに意味はありません。

 これは、翻訳してしまうと意味が限られてしまったり、本来の意味がそこなわれてしまう恐れがあるため、もとの言葉をそのままにしておく必要があったからです。


 さて、「般若は智慧のことで知識とは違う」といわれます。江戸時代の名僧、至道無難(しどうぶなん)禅師は、「何もない所から出る智慧を般若という」と説明しました。

 般若心経には「空(くう)」や「無(む)」という文字が多く見られます。これは、「からっぽ」とか「何もない」という意味でありますが、仏教ではそのままでは終わりません。「何もない状態」というのは、「何かが生まれる状態」でもあります。容器に何かを入れるためには「からっぽ」にしなければなりません。

 今まで自分をしばりつけていた価値観や経験から自由になるための心のはたらきを智慧というのです。


 悩みや迷いのあるこちらの岸(此岸:しがん)から、それらのない向こう岸(彼岸)に渡る、と仏教では説かれます。しかし、じつは彼岸も此岸も同じ世界なのです。つまり、向こうに渡れば今度はこちらが向こう岸になるわけです。そして、このことに気づくための智慧を教えるのが般若心経なのです。

 ものごとを自由自在に考えることや物の見方を変えてみることの大切さを、お経を通じて学びましょう。


すべては変化していく

 お地蔵さまや阿弥陀さまなど、仏さまにはいろいろな姿があります。これは、お釈迦さまの教えをあらわすために、後世の人が考えたものだからです。

 仏像を見ますと、手の形がさまざまで、耳が大きく、立っていたり座っていたりします。手の形は「印相(いんぞう)」といい、願いを聞き入れたり、恐れを取りのぞくなどの意味があります。また、耳が大きいのは、人々の声をよく聞くためであるといわれています。


 般若心経には、観自在菩薩(観世音菩薩のこと)が登場します。観音さまは、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の教えをあらわす仏さまです。

 智慧とは、今まで身についた知識や経験、価値観からはなれて、ものごとをありのままに見ていくことです。般若心経は智慧の教えを説くお経ですから、自分の心を見つめて自在におさめるということで「観自在」と訳しました。

 一方、慈悲には人の苦しみを自分の苦しみとして感じるという意味があるので、世間の音(声)を察するということで「観世音」と訳されました。


 般若心経は、観音さまが「智慧第一」とよばれる弟子の舎利子(しゃりし:シャーリプトラ)をとおして、人々に説法する形式で教えが示されます。

 観音さまは実在の人物ではありませんが、智慧の教えを説く仏さまとしてぴったりだと考えられたからでしょう。お経では、お釈迦さまも観音さまも同じ存在なのです。


観自在菩薩
(かん じ ざい ぼ さつ)
観自在菩薩は、

行深般若波羅蜜多時
(ぎょう じん はん にゃ は ら みつ た じ)
自分勝手にものごとを見ないで、ありのままに正しく見るという「智慧の教え」を深く実践し、

照見五蘊皆空
(しょう けん ご うん かい くう)
「心や体のはたらきは、すべて永遠に変わらないものではなく変わり続けるものだ」と明らかにして、

度一切苦厄
(ど いっ さい く やく)
あらゆる苦しみや災難から人々を救いました。


 仏さまには、釈迦如来や大日如来、阿弥陀如来といった「○○如来」というものと、観世音菩薩や地蔵菩薩といった「○○菩薩」というものがあります。

 如来も菩薩もお釈迦さまをモデルにしたものですが、如来はさとりを開いた姿、菩薩はさとりを求めて修行する姿をあらわしています。さとりを開いてしまうと人々から遠い存在になってしまうので、「人々を救うために、あえてさとりを開かない」という役割なのが菩薩という仏さまなのです。


 五蘊(ごうん)とは、5つの集まりという意味で、人間の心と体をあらわしたものです。

(1)色(しき)……身体など目に見えるもの
(2)受(じゅ)……喜びや苦しみなどの感情や、痛みなどの感覚
(3)想(そう)……花や動物など、物事のかたちを心に思い浮かべること
(4)行(ぎょう)……何かをする、何かをしない、という意志
(5)識(しき)……知識や経験から学んだこと

 これらはすべて「空(くう)」、つまり変化するものである、と般若心経では説かれています。


変化こそが本当の姿

 インドには、霊鷲山(りょうじゅせん)という山があります。お釈迦さまは、ここで多くの説法をしました。『般若心経』もこの山で説かれたと伝えられています。

 お釈迦さまの説法は、病気や病人の体力に応じて薬を与えるのと同じように、相手の悩みや能力に応じて教えを説くものでした。「対機説法(たいきせっぽう)」といいます。

 やがて、多くの人々がお釈迦さまの説法を聞くために、各地から集まってきました。


 『般若心経』に登場する「舎利子(しゃりし):シャーリプトラ」も、そんな人々のなかの一人です。

 もともと、舎利子はほかの人の弟子でした。ある日、舎利子が道を歩いていると、おだやかな表情で落ちついた人がいることに気づきました。ただ者ではないと思って「あなたはどんな修行をされてきたのですか。」と話しかけてみると、次のように答えました。

 「私はお釈迦さまの弟子です。この世は偶然で成り立っているのではなく、原因があって結果があると考えるのが、その教えです。」

 これを聞いた舎利子は、お釈迦さまの弟子になり、「智慧第一」とよばれるまでになりました。


舎利子
(しゃ り し)
シャーリプトラよ。

色不異空
(しき ふ い くう)
かたちのあるものは、いつか必ずこわれたり、なくなったりしてしまい、それは実体のないものと同じである。

空不異色
(くう ふ い しき)
また、実体のないものは、永遠にこわれることもなく、なくすこともないので、かたちあるものと同じように確かなものである。

色即是空
(しき そく ぜ くう)
すなわち、目に見えるものは、変わらないようで変わり続けており、

空即是色
(くう そく ぜ しき)
変わり続けるものは、頼りないものではあるが、確かに存在しているものである。

受想行識
(じゅ そう ぎょう しき)
感覚や感情、意志や知識、経験といった心のはたらきも、

亦復如是
(やく ぶ にょ ぜ)
また同じように、絶えず変わり続けるものであるが、それもまた心という確かな存在である。


 「色(しき)」は目に見えるもの、かたちのあるものを表し、「空(くう)」は実体のないもの、変わり続ける状態を表します。つまり、「色即是空」とは、「かたちあるものは変わり続けていくものだ。」という意味です。これは理解しやすいと思います。どんなに大事にしていても、ものはこわれるし、若さや命も永遠ではありません。世の中のすべての現象は絶えず変わり続けています。

 難しいのは「空即是色」のほうで、これは「変わりゆくものこそ確かなものである。」という意味です。


 たとえば、人は年をとり、病気になり、死んでいきます。例外はありません。つまり私たちは、変わり続けていくもの(空:くう)です。しかし、生まれてから今までの自分は、どれも同じ「自分」です。年をとって、病気になって、死んでしまっても、自分であることに変わりはありません(色:しき)。

 このように『般若心経』は、すべてのことは変化する存在であると示したあとで、その変化こそが、ものごとの本当の姿である、と説いていきます。


変化を受け入れ、ありのままに見よう

 「柳は緑、花は紅(くれない)」という禅語があります。ものごとをありのままに見ることの大切さを教える言葉です。

 たとえば、ある絵画を見たとします。すると、いろいろな感想を持つことでしょう。技法はどうだとか、作者はどういった人なのかとか、いくらぐらいするのかとか。絵そのものを、何も考えずにただ見るということは、じつに難しいことなのです。


 ありのままに見ることができないということは、自分の都合でものごとを考えてしまうことにつながります。

 『般若心経』では「ものごとは変化する」と、くり返し説かれています。自分も他人もすべて変わり続けているのです。にもかかわらず、「こうあるべきだ」という価値観にとらわれていると、自分の思いどおりにならないといって不満が増えてしまいます。つまり、ものごとをありのままに見るということは、ものごとの変化を受け入れるということです。変化を楽しむということなのです。


舎利子
(しゃ り し)
シャーリプトラよ。

是諸法空相
(ぜ しょ ほう くう そう)
このように、すべての存在は変わり続けているのであり、変わり続けている姿こそが本当の姿である。

不生不滅
(ふ しょう ふ めつ)
だから、ものごとには始まりもなければ終わりもなく、

不垢不浄
(ふ く ふ じょう)
きたないだとか、きれいだとかいった価値観もなく、

不増不減
(ふ ぞう ふ げん)
ありのままなのだから、増えるということもなければ、減るということもないのである。


 江戸時代の名僧、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師は、「人間とは本来、鏡のようなものである」と説きました。

 鏡は、きれいなものも、きたないものも区別なく、ものごとをありのままに映します。しかし、鏡そのものには何の変化もありません。

 人の心も同じで、だれも生まれたばかりのころは、まっさらでした。もともと何にもない、自由だった自分の心をしばりつけているのは、やはり自分自身なのでしょう。


是故空中
(ぜ こ くう ちゅう)
こういうわけで、あらゆるものには実体がないという「空(くう)」の教えによると、

無色 無受想行識
(む しき む じゅ そう ぎょう しき)
目に見える姿はもちろん、目に見えない感覚や認識、意志や意識という心のはたらきも確かなものではなく、

無眼耳鼻舌身意
(む げん に び ぜつ しん い)
目や耳、鼻や舌、体や心といった感覚器官でさえも絶対ではないのである。

無色声香味触法
(む しき しょう こう み そく ほう)
それはつまり、目に見えるもの、聞こえるもの、においや味、触れるもの、考えることもありのままでなく、

無眼界 乃至 無意識界
(む げん かい ない し む い しき かい)
自分の都合や感情、経験や記憶にもとづいて、いままで見てきたもの、聞いてきたこと、においや味、感触、考えたことは、じつは本当の姿ではないのかもしれないのである。


苦しみも「空」である

 8月13日の盆の入りには夕方、お墓・家の玄関先(庭先)の順で火をたいて、ご先祖さまをお迎えし、16日(15日)の夕方には反対順に火をたいてご先祖さまをお送りします。明かりを道しるべにするのです。

 仏教では、暗やみ(迷い)をてらす灯明は智慧(ちえ)の教えをあらわします。また、「無明(むみょう)」とは、ものごとに明らかでなく、暗やみの道に迷いこんでいる状態をいいます。


 『般若心経』は、いままで見てきたように、「空(くう)」の教えを説いています。空(くう)の教えとは、すべてのものは変わりつづけるということです。これは、よいことも続かないけれども、悪いことも続かないということです。また、悩みが次から次に出てきても、永遠に悩みが残るわけではありません。

 しかし、自分の都合でものごとを見てしまうと、悪いことばかりに目がいって、不満がつのるばかりです。よいことも悪いことも、ものごとをありのままに見ていくことが智慧の教えです。


無無明 亦無無明尽
(む む みょう やく む む みょう じん)
「空(くう)」の教えによれば、迷うということもなければ迷いが尽きてなくなる、ということもない。迷ったり、迷いが消えたりをくり返していくのである。

乃至 無老死
(ない し む ろう し)
さらに、老いるという苦しみも、死ぬという苦しみもない。それは、年をとったり死ぬことは苦しいが、いつまでも年をとらなかったり、死なないということも、同じように苦しいからである。

亦無老死尽
(やく む ろう し じん)
また、老いる苦しみや死の苦しみがなくなるわけではない。老いや死という絶対にのがれられないものから、のがれようとするから苦しいのだ。

無苦集滅道
(む く しゅう めつ どう)
苦しいことを苦しいと自覚すれば、苦しみも、その原因もなくなり、苦しみをなくしたいと思うこともなく、苦しみをなくす方法も必要ないだろう。

無智亦無得
(む ち やく む とく)
苦しいことを苦しいとありのままに見ることができたならば、もはや智慧の教えなどという知識すら必要でなく、さとりを得るというこだわりもなくなるのである。


 たいへん苦労することを「四苦八苦する」といいますが、これは本来仏教の言葉です。

 まず四苦(しく)とは、生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)の苦しみです。生まれること、年をとること、病気になること、死ぬこと・・・。すべて思いのままになりません。

 これら四苦に、さらに4つの苦しみを加えたものを八苦(はっく)といいます。

●怨憎会苦(おんぞうえく)……憎い人と出会ってしまう苦しみ

●愛別離苦(あいべつりく)……愛するものと別れてしまう苦しみ

●求不得苦(ぐふとくく)……求めても得られない苦しみ

●五蘊盛苦(ごうんじょうく)……心も体もすべて思い通りにならない苦しみ

 『般若心経』には、これらの苦しみを消し去る方法は説かれていません。苦しみをなくすことはできないからです。そこに書かれているのは、苦しみにとらわれる必要はない、ということです。苦しみもまた「空(くう)」なのですから。


変わらないものは、みんなの中にある尊さ

 菩薩(ぼさつ)は、正式には「菩提薩埵(ぼだいさった:ボディサットヴァ)」といい、さとりを求める者のことで、もともとはお釈迦さまの修行時代をあらわした言葉です。

 『般若心経』に登場する観自在菩薩は、智慧(ちえ)と慈悲(じひ)の教えを示しており、「人々を救うため、あえてさとりを開かない仏さま」ですが、ここでの「菩薩」は修行する人々をさします。

 この菩薩たちの修行する心がまえが「6つの行い」です。

(1)布施(ふせ)……与えること
(2)持戒(じかい)……自分にきびしいこと
(3)忍辱(にんにく)……たえること
(4)精進(しょうじん)……努力すること
(5)禅定(ぜんじょう)……心を落ちつけること
(6)智慧(ちえ)……正しくものを見ること


 一方、「仏(ほとけ)」は「ブッダ(目覚めた人)」という意味で、さとりを開いたあとのお釈迦さまの呼び名ですが、ここでは自分の中にある尊いものに気づいた人のことをいいます。


以無所得故
(い む しょ とく こ)
さとりを得るということもないから、

菩提薩埵
(ぼ だい さっ た)
道を求める者たちは、

依般若波羅蜜多故
(え はん にゃ は ら み た こ)
すべてのことは変わり続けるもので、その変わり続けている姿こそ本当の姿であると、ものごとをありのままに見ていく智慧の教えをもとに、日々の生活をしていくことで、

心無罣礙
(しん む けい げ)
心にこだわりがなくなる。

無罣礙故
(む けい げ こ)
こだわりがなくなれば、

無有恐怖
(む う く ふ)
思いどおりにならないと自分を責めることも、こうでなければならないという不自由もなく、何も恐れるものはない。

遠離一切顚倒夢想
(おん り いっ さい てん どう む そう)
ものごとをさかさまに見たり、夢のような考えをしたりすることからも遠く離れて、

究竟涅槃
(く ぎょう ね はん)
迷いのない安らかな心になっていく。

三世諸仏
(さん ぜ しょ ぶつ)
また、過去・現在・未来・いつの時代にも、自分とはこうだと言い切れないものであり、それこそが本来の自分(仏)なのだとありのままに見ていく人々は、

依般若波羅蜜多故
(え はん にゃ は ら み た こ)
やはり智慧(ちえ)の教えを実際に行っているので、

得阿耨多羅三藐三菩提
(とく あ のく た ら さん みゃく さん ぼ だい)
このうえなく正しいことで、みんなに等しくあてはまること。つまり、すべてのことは変わり続けているが、そのなかにも変わらないものがあること、すなわち誰にも尊い「こころ」、尊い「いのち」があることを知っているのである。


 人は、何も持たずに生まれてきます。「こころ」も「いのち」も、自分の力で手に入れたものではありません。与えられたものです。そして、そんな尊いものが自分だけでなく誰にもあるのだ、ということに気づくために「6つの行い」をするのです。


尊さは「ひとり」では分からない

 インド地方で生まれた仏教は、時代とともに各地に広まりました。そのうち、インドからシルクロードを経て中国、日本と伝わった「北方仏教」と、海をこえてタイやミャンマーなど東南アジアに伝わった「南方仏教」の二つに分けられます。

 この二つの仏教のちがいは、だれが教えによって救われるかです。修行したものだけが救われるのが南方仏教、みんなを救おうというのが北方仏教です。


 仏教では、「さとり」を乗り物にたとえ、一部の人しか乗る(救う)ことのできない仏教を「上座部(じょうざぶ)仏教」、多くの人々を乗せる(救う)ことができる仏教を「大乗(だいじょう)仏教」といいます。日本に伝わったのは大乗仏教です。

 もともと、お釈迦さまが亡くなったころの仏教は上座部仏教の考え方でした。長い年月を経て生まれたのが大乗仏教の教えです。

 「般若心経」にも、自分だけでなく、みんなを救おうという考えが説かれています。お釈迦さまもさとりを得たあと、人々に法を説きつづけました。


故知般若波羅蜜多
(こ ち はん にゃ は ら み た)
だから知るのである。すべては変わりつづけ、また変わることがないという智慧の教えは、

是大神呪
(ぜ だい じん しゅ)
すばらしい力を持つ言葉であり、

是大明呪
(ぜ だい みょう しゅ)
暗やみを照らす言葉であり、

是無上呪
(ぜ む じょう しゅ)
この上ない言葉であり、

是無等等呪
(ぜ む とう どう しゅ)
他と比べるものがない言葉であり、

能除一切苦
(のう じょ いっ さい く)
すべての苦しみを取りのぞくものであり、

真実不虚
(しん じつ ふ こ)
その教えは真実であって偽りではないことを。

故説般若波羅蜜多呪
(こ せつ はん にゃ は ら み た しゅ)
だから、智慧の教えを実践する言葉を説くのだ。

即説呪曰
(そく せつ しゅ わつ)
すなわち、その言葉を説いていうと、

羯諦 羯諦
(ぎゃ てい ぎゃ てい)
「私はさとりの岸に着いた。私によって他の人もさとりの岸に着いた。」

波羅羯諦
(は ら ぎゃ てい)
「むこうにあるさとりの岸に着いた。」

波羅僧羯諦
(は ら そう ぎゃ てい)
「みんな一緒にさとりの岸に着いた。」

菩提薩婆訶
(ぼ じ そ わ か)
「こうして私のさとりは完成した。」

般若心経
(はん にゃ しん ぎょう)
これが智慧の大切な教えである。


 人は苦しいことがあると、自分だけが悩んでいるように考えてしまいます。しかし、悩みのない人などいません。苦しみは自分だけのものではないのです。そして、自分の苦しみを見つめることが、他人の苦しみに気づくことにつながり、悩みを分かちあうことで、お互いに救われるのではないでしょうか。

<おわり>


 

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