臨済宗のはじまり
仏教がインドで生まれて、中国に伝わったのは、達磨(だるま)大師によるものといわれています。そのときに禅の教えが中国に広まりました。そして、禅は時代が進むとさらに、「五家七宗(ごけしちしゅう)」と呼ばれる、さまざまの宗派に分かれていきました。唐の時代に生まれた臨済宗もその中の一つです。
臨済宗をはじめた人は、臨済義玄(りんざいぎげん)といいます。20歳のころに出家した臨済禅師は、各地をめぐり修行をしましたが、お経の知識を得るだけでは満足できませんでした。そんなときに黄檗希運(おうばくきうん)禅師に出会いました。黄檗禅師のもとで修行をした臨済禅師は、さらにすすめられて大愚(たいぐ)禅師のもとで修行をし、さとりを開きました。
ちなみに、「臨済」とは「川の渡しをのぞんだところ」という意味で、そこ(臨済)にあった小さなお寺に義玄禅師が住んでいたことから、「臨済宗」といわれるようになりました。
日本に伝わった臨済宗
臨済宗が日本に伝わったのは、鎌倉時代のはじめごろ、栄西(えいさい)禅師によってです。はじめのうちは新しい宗教ということで京都では布教できず、鎌倉で源頼朝など武家を中心に広まりました。やがて、鎌倉時代も中期になると中国から高名な僧が来日し、鎌倉に大きなお寺を建てました。このころから京都でも少しずつ「禅」が根づいていきました。
室町時代になると、臨済宗は幕府などの武家だけでなく、朝廷(公家)にも受け入れられました。禅宗が建築や庭園、文学など文化に影響を与え、権力者と結びついていた一方で、禅の教えを守り修行を続けていた宗派がありました。現在、残っている臨済宗の14の宗派が、その流れをくんでいます。
江戸時代は、臨済宗の明暗の分かれた時代でした。「檀家制度」ができたのはこの時代です。キリスト教を禁止していた江戸幕府によって、臨済宗は保護されました。檀家制度によって生活を保障された僧たちは、布教や修行をしなくなってしまいました。
そんな中、臨済宗を立て直したのは、盤珪永琢(ばんけいようたく)禅師と白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師の二人でした。彼らは、分かりやすい言葉で人々に禅を伝えました。とくに白隠禅師は臨済宗の「中興の祖(ちゅうこうのそ)」といわれ、今の日本の臨済宗のほとんどは、その流れをくんでいるといわれています。