お釈迦さまの一生

はじめに

 仏教は、たった一人の人間が「なぜ人は生まれて、悩み苦しんで、死んでいくのだろう。」という疑問を持ったことから生まれました。お釈迦さま以前にも、同じような疑問を持った人もいたことでしょう。さまざまな宗教に共通するものは「幸せに生きるとは何か?」というテーマです。仏教はその答えの一つです。お釈迦さまの人生を通して、みなさま一人一人がその答えを見つけられることができましたら幸いです。


お釈迦さまの誕生

 「仏教といえばインド」というイメージから、お釈迦さまは、今のインドで生まれたと思われがちですが、正しくはインドの北部地方(現在のネパールという国)、ヒマラヤ山脈のふもとの「カピラ」という国の王子として生まれました。

 この国は、大きな2つの国にはさまれ、弱い立場であったので、王子(お釈迦さま)は人々から期待され、目的を成しとげた人、という意味を持つ「シッダールタ」と名づけられました。


 お釈迦さまが生まれたのは、今から2500年くらい前のことです。

 母親のマーヤが出産のため里帰りをする途中、ルンビニーという所で生まれたと伝えられています。4月8日のことでした。日本では、この日に「灌仏会(かんぶつえ)」とか「花まつり」という、儀式を行うお寺もあります。

 ところで、お釈迦さまが生まれてまもなく重大な出来事がありました。それは、生みの親であるマーヤが亡くなってしまったことです。お釈迦さまは、実の母親ではなく、母の妹に育てられました。


 お釈迦さまは、カピラ国の王子として大切に育てられました。父親のスッドーダナ王は、王子に家庭教師をつけ、跡つぎとして必要な学問を身につけさせました。

 育ての母の愛情も深く、不自由なく育っていたお釈迦さまでしたが、12歳の春に行われた、豊作を祈る儀式に出席したことが、後の生き方に大きな影響を与えた、といわれています。

 儀式の最中、土の中から出てきた虫を、小鳥が飛んできて、その虫をくわえて去っていきました。さらにその小鳥を、大きな鳥がさらっていってしまったのです。その光景を見ていた人々は、驚きと感動のために歓声をあげました。しかし、お釈迦さまは他の人と違うことを考えていました。

 「弱い者は強い者にかなわないという。この国も大国にはかなわないだろう。では、あの大きな鳥のように、強い者は永遠に強いままでいられるだろうか。多くの人を支配しても、どんなに財産をきづいても、やがては死んで、ほろんでしまうだけではないか。」

 権力や富のむなしさに、お釈迦さまはなんとなく気づきはじめていました。


 そのころ、インドや周辺の国では、「バラモン」と呼ばれる人々が社会を支配していました。バラモンたちは自分たちを「血統の正しい人間」として、バラモンでない人々を、武士、市民、奴隷に分類し、差別しました。神につかえるバラモンはこう言います。

 「人間は、生まれたときから神によって身分が決められている。この身分は子孫代々、永遠に変わらない。身分の違うものは結婚はもちろん、いっしょに食事もしてはならない。」


 さて、時が過ぎても、お釈迦さまの悩みは解決されません。幼くして母と死に別れ、体も丈夫でなかった王子のそんな様子を見て、父親である王は、悩みを忘れさせようと、ぜいたくな生活をさせ、さらに同族の王の娘を、お釈迦さまと結婚させました。しかし、その悩みはお金やもので解決できるものではありませんでした。

 「人はなぜ生きるのか。苦しむのか。何のために生まれてくるのか。なぜ、この世界が存在するのか。人間のつくった身分とは何か。」

 まわりの大人に聞いても、納得できる答えはありませんでした。お釈迦さま、19歳のころのことです。


お釈迦さまの出家

 人生は、よく旅にたとえられます。「いったい、今の自分があるのは、どのような道を歩いてきた結果なのだろうか。」そう考えてみると、現在に至るまでに、いくつかの人生の分かれ道があったと思います。

 仏教が生まれたのは、お釈迦さまが、なに不自由ない王子の身分ではなく、修行の道を選んだからです。お釈迦さまが出家を決めた心の中は、「四門出遊(しもんしゅつゆう)」という物語によって伝えられています。


 「なぜ、人は苦しみながらも生きるのだろう。」

 人生に悩むお釈迦さまを見て、父親の王は、気晴らしに外出をすすめました。

 お釈迦さまの住む城には、四つの門がありました。まず、東の門から城外に出ようとすると、老人を見かけました。お釈迦さまは、お供の人にたずねます。「人は年をとると、あのようになるのか。」お供の人は答えます。「はい、人は誰でも老いるものです。」

 同じように、南門で病人、西門で死者を見ました。「私もいつか、あのようになるのだ。この苦しみは忘れることはできても、のがれることはできない。」


 お釈迦さまは暗い気持ちで、最後に北門に向かいました。そこで、1人の修行者に出会います。

 「あなたは何のために修行をしているのですか。」

 お釈迦さまの質問に、修行者はこう答えます。

 「私は、この世の苦しみを乗りこえるために修行をしています。」

 お釈迦さまは思いました。

 「これこそ、私が求めていた道ではないか。」


 ところで、当時のインドあたりでは、古くからきびしい身分制度ができていました。身分を決めていたのは、「バラモン」と呼ばれる、大昔に、よその土地から移り住んできた人々でした。バラモンたちは、政治など、世の中のすべてを、神への祭りや占いで決め、支配していました。たとえ王さまでも、バラモンの考えに反対してはならなかったのです。

 「私たちバラモンは、選ばれた人間である。バラモンでない者は、神々にお供えをして、祈らなければ、幸せにならない。」

 バラモンの儀式は、やがて形ばかりのものとなり、世の中は乱れていきました。


 さて、お釈迦さまの様子が変わったのを見て、父親の王は、「王子は出家するのでは・・・」と心配します。それは、お釈迦さまが生まれたときに、ある仙人が「この子の人生には2つの道がある。それは、王になってこの国を救う道と、出家して世界の人々を救う道である。」と言っていたからです。父親としては、王子に自分のあとを継いでもらいたいので、出家しないように見張りをつけました。

 また、このころ、出家を決意したお釈迦さまを引き止めるかのように、男の子が生まれました。


 しかし、お釈迦さまの心は変わりませんでした。

 「どんなに身分が高くても、みな老い、病気になり、死んでいく。バラモンだって同じだ。病気には身分や生まれなど関係ないのだから。ひでりや洪水だって、彼らがどんなに神々に祈っても、まぬがれることはない。では、どうしたら、これらの恐怖に立ち向かうことができるのか。私は、生きているうちに、その答えを知りたい。」

 こうして、お釈迦さまは、年老いた父親も、育ててくれた母親も、妻も子も、国も身分も、何もかも捨てて、城を出ました。29歳のときでした。


お釈迦さまの修行

 城を出たお釈迦さまは、髪をおろし、「マガダ」という、インドの国境付近の国に向かいました。なぜなら、「マガダ国には、徳の高い行者がいるらしい」という噂が、お釈迦さまの国にも伝わっていたからです。

 行者の名前はアララ仙人といいました。仙人には300人の弟子がおり、お釈迦さまも、その中の1人となったのです。仙人は、弟子たちに「ヨガ」による修行をさせていました。


 「ヨガ」は、後に仏教に取り入れられて、「坐禅」へと変わっていきますが、もとはインドに古くからある「精神統一」をするためのものでした。

 「精神統一の間は、じっとしていて、何も考えてはいけない。欲も感情も捨てなさい。そうすれば、何ものにもとらわれない心を得ることができるだろう。」

 アララ仙人のもとで修行したお釈迦さまは、あっという間にこの教えを理解しました。しかし、「人生の苦しみから救われるにはどうしたらいいのか」ということは分からず、仙人のもとを去っていきました。


 お釈迦さまはその後、700人もの弟子を持つ「ウッダカ仙人」という、さらに高名な行者の弟子になりましたが、やはりその教えにも満足できませんでした。

 「私が知りたいのは、病気や死ぬことを恐れないで生きていくにはどうすればよいか、ということだ。たしかに、精神を集中している間は、心が落ち着いて、すべてが無くなる感じがする。しかし、これでは悩みをただ忘れているだけであって、問題の解決にはなっていない。私は、木や石になるために出家したわけではないのだ。」


 自分の求めている答えは、人から教わるものではない...。そこで、お釈迦さまは、当時のインドの各地でよく行われていた「苦行」をはじめます。

 苦行とは、水の中で息を止めたり、何日もご飯を食べなかったり、火のついた、たき木の上をはだしで歩いたりするなど、自分の体を苦しめる修行のことです。


 ところで、インドでは昔から「生まれ変わり」が信じられていました。そして、それは身分の高い者は幸せに、低い者は不幸に生まれ変わる、というものでした。

 この考えに反対したのが苦行者たちです。

「たとえ身分の高い者でも、悪いことをすれば死後、不幸な人に生まれ変わる。この世でしたことのむくいは、いつか必ず受けることになる。」

 苦行者たちは、自分の体を苦しめることで、心を清らかにしようとしました。苦しみによって、余計なことが考えられなくなるからです。

 「心が清らかになれば、悪いことも考えなくなるので、生まれ変わって幸せになれる。」

 彼らが苦行をする理由です。


 一方、お釈迦さまが苦行を始めたのは、生まれ変わった世界で幸せになるためではなく、この世で自分が幸せに生きていく大切な考えを見つけるためでした。

 「苦しみの末、死んでしまうのでは、生まれてきた甲斐がない。」

 苦行者たちは、苦行林と呼ばれる森に集まって修行していました。お釈迦さまも、ここで6年間、苦行を続けることになります。


お釈迦さまのさとり

 お釈迦さまが苦行を始めて、6年のときが流れました。この間、お釈迦さまは他の苦行者たちと同じように、断食をしたり、体を土の中にうめて何日も過ごしたりしました。

 「自分の体を痛めつけることで、心が強くなり、死への恐怖や、人生の悩みが解決するのではないか。」

 修行は、さらにきびしくなっていきましたが、それでも、お釈迦さまの心は満たされませんでした。


 そんな、お釈迦さまの悩みを知らない他の苦行者たちは、お釈迦さまがきびしい修行をするので、りっぱな苦行者として尊敬していました。

 あるとき、お釈迦さまが川ぞいの道を歩いていると、向こうから1人の農民が、歌を歌いながら歩いてきました。

 ♪「琵琶(びわ)の弦(げん)、強くしめれば糸が切れ、ゆるけりゃ音が悪くなる。」

 聞くともなしに聞いたこの歌は、お釈迦さまの心に強くひびきました。

 「苦行は、間違いだったのか。」


 お釈迦さまは、苦行を続けているうちに、こう思ってきました。

 「自分のやりたいことだけを楽しんで、一生を過ごそうと思うことは、おろかなことだ。しかし、自分を苦しめるような修行に夢中になることも同じではないか。」

 そこに、この農民の歌を聞いたのです。

 「楽器の糸だって、いい音を出そうとすれば、強すぎず、弱すきず、ちょうどよい具合にしめなければならない。人の生き方も同じではないか。他人に流されず、かといって自分勝手にもならない。そんな生き方こそ、私の求めるものだ。」

 こうして、お釈迦さまは苦行をやめることにしました。


 苦行で疲れきった体力を回復させるため、お釈迦さまは川で身を清め、村娘から食べ物の施(ほどこ)しを受けました。

 お釈迦さまが苦行を捨てたことは、あっという間に、他の苦行者たちに知れわたりました。「中途半端(ちゅうとはんぱ)ではいけない」という非難の言葉のなか、お釈迦さまは苦行林(くぎょうりん)を去っていきました。


 苦行林を出たお釈迦さまは、ガヤーという町のはずれにある、「ピッパラ」という名前の大きな木の下で坐禅(ざぜん)を始めました。

 「自分の進むべき道を見つけるまで、この場所を立つまい。」

 お釈迦さまは、静かに、自分と向き合うことに決めました。


 「生きることは苦しい。楽しいこともあるが、老いや病気、死のことを考えれば、やはり苦しい。」

 「この苦しみは、いったいどこから来るのだろうか。」

 「それは、いつまでも若く、健康で、死にたくないと願っているからだ。」

 「では、どうしたら、その苦しみから解放されるのだろう。」

 お釈迦さまは、くる日もくる日も考えました。そして、なんとなく分かりかけてきたのです。

 「私の命は、私の力で生まれたものではない。この命は与えられたものである。私のものではない。」

 「山も、川も、草も、木も、この世界にあるすべてのものは、みな大切な役割を与えられている。私の、この命にも、何らかの役割が与えられているのではないか。」

 12月8日の夜明け前、お釈迦さまは「さとり」を開きました。35歳のときでした。


お釈迦さまの説法

 さとりを開いたお釈迦さまは、その後、「ブッダ(目覚めた人)」といわれました。

 しかし、お釈迦さまには、悩みがありました。「さとった人が悩む」というのは、意外でしょうが事実です。なぜなら、「さとり」とは、まったく悩みがなくなることではなく、「悩みを解決するためには、悩みと向き合わなければならないことに気づくこと」だからです。


 さて、お釈迦さまの悩みは、「私の見つけたことは、他の人々に分かってもらえるだろうか。」ということです。

 たとえば、当時のインドの常識では、きびしい修行をした人や、生まれながら身分の高い人だけが、生まれ変わっても幸せになれる、と信じられていました。しかし、お釈迦さまは「人は生まれ変わることはなく、だからこそ大切に生きなければならない」と考えました。また、「どんな人にも与えられた命があるのだから、それだけで尊いものだ」とも考えていました。


 やがて、お釈迦さまは、自分が苦行をしていたときに、いっしょに修行をしていた5人の苦行者のことを思い出しました。

 「彼らなら、私の話を聞いてくれるかもしれない。」

 彼らが「鹿野苑(ろくやおん)」という所にいることを知ったお釈迦さまは、さっそく会いに向かいました。

 はじめは、5人の苦行者たちは、苦行を捨てたお釈迦さまの言葉を聞こうとしませんでした。しかし、熱心に話すお釈迦さまの様子を見て、苦行者たちもしだいに耳をかたむけるようになりました。


 「みなさん、私はこの人生の苦しみをなくしたいと思い、修行をしてきました。そして、4つのことが分かりました。」

 「まず分かったことは、『人は生きているかぎり、悩みや迷いから、のがれられない』ということです。これは、当たり前のことのように思いますが、多くの人は苦しみを忘れようとして、ひとときの楽しみにふけってしまいます。『苦しみから目をそらさない。』これが第1の道です。」

 「そうして人生の苦しみを見つめれば、なぜ自分が悩んでいるのかが分かってくるはずです。『苦しみには必ずその原因があることを知る。』これが第2の道です。」

 「苦しみに原因があるのなら、その原因を取りのぞけば、もはや苦しむことはなくなります。『苦しみの原因を取りのぞくこと。』これが、第3の道です。」

 「そして、第4の道、『その原因を取りのぞくためにする行いがあること』が分かったのです。」


 「その行いとは、

(1)正しく物事を見ること

(2)正しく考えること

(3)正しく話すこと

(4)正しい行動をすること

(5)正しい生活を送ること

(6)正しい努力をすること

(7)正しいことを思うこと

(8)正しく物事に集中すること

の8つです。」

 「『正しい』とは、自分が正しいと思ったことではありません。いつの時代にも、どこの国でも、どんな身分の人にも正しいものでなければなりません。」

 苦しむことが目的だった苦行者たちは、その無意味さに気づきました。


お釈迦さまの弟子

 かつての苦行仲間だった5人の修行者に説法をしたお釈迦さまは、その後も、生きることに悩み苦しんでいる人に、教えを説いていきました。お釈迦さまはそれぞれの人に、分かりやすくたとえ話などを使って、悩みを解決しようと努力しました。

 「ハスはきれいな場所には生えず、どろの中に咲きます。同じように、人は迷い、悩むからこそ、それを克服しようとするすばらしい心を持っているのです。」


 お釈迦さまによって悩みを解決した人々は、お釈迦さまの弟子になりました。彼らは、お釈迦さまが出家したときと同じように、髪をおろし、ボロボロの布を身につけました。

 また、お釈迦さまは、弟子たちに、修行をしていく上で大切にする3つのことを示しました。それは、

(1)修行者を正しく導いてくれる人……仏

(2)人の道の教え……法

(3)ともに修行をする仲間……僧

の3つです。これらは「三宝(さんぼう)」といわれました。


 さらに、修行者には、「5つの心がまえ」がさずけられました。

(1)生き物をむやみに殺してはいけない。

(2)盗みをしてはいけない。

(3)みだらな行いをしてはいけない。

(4)自分勝手なうそをつかない。

(5)お酒を飲んではいけない。

 これらは、いわゆる「五戒(ごかい)」というものです。「戒」とは戒めのことで、守るべき規則のことです。お釈迦さまは、弟子たちを規則でしばりつけるのではなく、弟子たちが自発的に決まりを守ることを期待しました。自分を変えることができるのは、自分だけであることを知っていたからでしょう。


 お釈迦さまは、インドの各地を歩いて布教したため、弟子の数は千人を超えていました。とくに修行を努めた10人の弟子は「ブッダ十大弟子」と呼ばれました。そのなかには、般若心経に出てくる「舎利子(しゃりし:舎利弗(しゃりほつ)とも)」や、お盆の由来となった盂蘭盆経(うらぼんきょう)の「目連尊者(もくれんそんじゃ)」などがいました。


 さて、弟子が増えてくると、彼らの生活の場所が必要になってきました。すると、お釈迦さまの生まれた国のとなりにある大国、マガダ国の王さまが、「竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)」を寄進しました。精舎とは寺院の別名で、仏教を修行する人の住む建物のことです。マガダ国の王さまは、お釈迦さまが王子の身分をすてて出家したことの、よき理解者でした。

 また、もう1つの大国、コーサラ国の長者からも、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」の寄進を受けました。この長者も、お釈迦さまによって悩みを解決した1人です。

 インドのきびしい自然から身を守ることのできるこれらの精舎は、お釈迦さまや弟子たちにとって、とてもありがたいものでした。なぜなら、苦行とはちがい、落ち着いて考えることが、彼らの修行だったからです。


 お釈迦さまは、35歳でさとりを開いてから、80歳で亡くなるまで、精舎で説法をしたり、インドの各地を歩いて、人々の悩みを聞きました。その一方で、バラモン教など、インドの古くからの宗教の反発や、教団内でも対立がありました。


お釈迦さまの故郷

 お釈迦さまは、カピラ国という小さな国の王子として生まれました。なに不自由ない暮らしの中で、お釈迦さまは悩みます。

 「人はなぜ死ぬのか。私は何のために生まれてきたのか。人の作った身分によって、人が苦しんでいるとはどういうことか。」

 やがて、お釈迦さまは、王子の身分をすて、妻と子を城に残し、修行の道に入ります。そして6年後、さとりを開きました。


 さて、王子であったお釈迦さまが出家をしてしまったので、カピラ国の王さま、つまりお釈迦さまの父親は悩みました。

 「王子は城を出て行ってしまった。わしはもう年だし、孫もまだ小さい。いまさら跡つぎを育てることも難しい。強大な2つの国に囲まれて、いったいこの国はどうなるのだ。」

 しかし、その一方では、自分の一族から修行者が出たということを、とても誇りにも思っていました。

 そして、時が流れました。


 「王子がさとりを開いて、人々に教えを説いている・・・。」

 この知らせは、お釈迦さまの故郷のカピラ国にも伝えられました。そこで、お釈迦さまの父である王さまは、息子のお釈迦さまに、国に帰ってくるように使いを出しました。

 父王は、お釈迦さまが城を出てから、連れ戻そうとすでに何人もの使いを送っていましたが、反対に、お釈迦さまの弟子になってしまい、帰ってきませんでした。

 しかし、今度は、故郷の人々に教えを説きたいと思い、また弟子たちも強くすすめたので、お釈迦さまはカピラ国へ帰ることに決めました。


 お釈迦さまにとって、12年ぶりの故郷です。お釈迦さまは、多くの弟子たちとともに城に入りました。そして、父や育ての母、妻子をはじめ、人々に説法をしました。

 「生きているかぎり、人は苦しみます。それは、自分の中にこだわりがあるからです。自分の思いどおりにならないから苦しいのです。」

 「だから、この苦しみの原因であるこだわりを取りのぞけばいいのです。こだわりには、かぎりがありません。こだわればそれだけ、苦しみもまた、かぎりなく続くことでしょう。」

 お釈迦さまの説法を聞いた人々は、つぎつぎに弟子となりました。その中には、お釈迦さまの息子、ラーフラもいました。

 父王も、もはやお釈迦さまにあとを継いでもらうことは、あきらめました。父王は、お釈迦さまのいとこにあたる人を後継者にむかえて、引退しました。


 王位を引退したお釈迦さまの父親は、やがて老いのために病気になり、まもなく亡くなりました。

 それから程なくして、カピラ国は、となりの大国であるコーサラ国に滅ぼされてしまいます。

 「形あるものは必ずこわれる。この国も、いつかは滅びることは分かっていた。私があとを継ごうと、このことは、さけられなかったのだ。しかし、結局、私は何もできなかった・・・。」

 育ての母や妻など、城から逃げてきた人々は助かりましたが、一族のほとんどは、命を落としてしまいました。


お釈迦さまの遺言

 お釈迦さまにも「老い」がおとずれました。もともと体が弱かったことに加えて、故郷を失った悲しみもあり、こうしたことが、お釈迦さまの体力を奪っていったのです。

 さらに、「舎利弗(しゃりほつ)」と「目連(もくれん)」という2人の弟子が次々に亡くなりました。自分の後継者として期待していた2人の弟子の死は、お釈迦さまにとって、とてもつらい出来事でした。


 「私の命は、そう長くはないだろう...。」

 あるとき、お釈迦さまは、弟子たちを集めて話しました。

 「私はまた旅に出ようと思います。それは、この命の続くかぎり、悩んでいる人を1人でも救いたいからです。あなた方は、今までどおり自らを戒め、心をやすらかに、修行を続けてください。」

 こうして、お釈迦さまは「阿難(あなん)」という弟子とともに、説法の旅へ出発しました。お釈迦さま、このとき80歳。さとりの時から45年の歳月が流れていました。


 行く先々の町や村で教えを説きながら、お釈迦さまはガンジス川を渡り、西へ向かいました。

 「そういえば、むかし、弟子の1人に『人は死んだらどうなるのか?』と聞かれたことがある。」

 お釈迦さまは、旅をしながら阿難に話しかけます。

 「その質問に、私は何も答えなかった。ただ、だまっていた。」

 当時のインド地方では、人は死んだら、生前の身分によって生まれ変わることが常識と考えられていました。

 「だから、弟子は何か物足りない様子だった。でも、私はこう考えている。『死んだ後のことは誰にも分からない。そんなことを考えるより、人は死ぬ、では限られた命をどうやって使うのか、そのことを考えたほうが大切ではないか』と。」


 ある村で、お釈迦さまは病気になりました。それでも、旅を続けました。しかし、鍛冶屋のチュンダという信者がもてなしたキノコの料理があたって、お釈迦さまの体は弱っていきました。

 「チュンダに伝えてほしい。これはあなたのせいではない。あなたが精一杯もてなしてくれたことに私は感謝している、と。」


 そして、「クシナガラ」という所に着くと、サーラの木(沙羅双樹)の下に横になりました。頭を北に、体の右側を下にして、お釈迦さまは、かけつけた人々のために、命の最後まで説法をします。

 「もし、心が悪いほうへ向かってしまうなら、これをおさえなければなりません。心にしたがわず、心の主となってください。」

 「言葉を大切に。悪い言葉を使わないように。悪い心を持ち、悪い言葉を使えば、相手を傷つけるだけでなく、自分自身も傷つけることになるのだから。」

 「あなた方は、それぞれ自分自身をよりどころにしてください。自らを暗やみを照らす明かりとして、正しい道を歩いてください。そして、それでも迷いがあるのなら、私の教えをよりどころにしてください。」

 すべてを説きつくして、お釈迦さまは80年の生涯を終えました。2月15日のことでした。

<おわり>


 

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